『追って来い!』

事件FILE03:海王星(ネプチュ−ン)の薔薇―後編―






さて、ヒカルは、衣装を身に着け、ストッキングをはいて、革靴のベルトを釦で留めた。
「佐為。 ちょっと、この靴はまずいんじゃないか。 結構、音がするぜ。」


ヒカルは足を踏んで見せた。 きゅっ、きゅっ…。
「ヒカル。 その足音は大切な信号です。 あなたの危機を知らせてくれるものです。」
そう言って佐為は、印を結んだ。
「あなたのその音は私にずっと聞こえます。 今回は、大変に、困難な使命なのです。」


ヒカルは改めて、自分の姿を眺めた。 あれほどどうかと思った巫女姿が懐かしいぜ。 フリフリのレースに縁取られた襟から覗く自分の顔を眺めた。
「佐為。 帽子とめがねとマスクをくれ。 俺、顔を見られたくないよ。 やっぱ。」


佐為は、仕方ないというように、帽子の変わりに白のレースでできたカチューシャを渡した。
めがねは黒ぶちの顔が半分隠れる代物だった。 マスクは、ただの白いマスクで。
佐為は、ヒカルの姿が遠く、見えなくなるまで見送った。
それから、部屋に戻り、瞑想し、ヒカルの足音が軽快に響くのをずっと耳を済ませて聞いていた。


ヒカルは、越智邸に近づくに従って、頑強な警備の気配を感じ、緊張した。
今回は結構やばいぜ。 なぜか、そういう気持ちだった。 取りあえず、夜中の2時まで様子を見ようか。


さて、いつまでたっても、怪盗Hは、現れない。 まさか、明け方などということは無いだろうが。
もしかして怖気づいたか。 温室は暖かく、眠気を起こさせるに十分だった。  それは、ついつい緊張感を鈍らせる。
温室の外に居る警官も、何となく、緊張が、薄れているようだ。
その時、母屋の屋敷の方で、騒ぎが。 何だろう。


警官が一人かけ込んできた。
「“土星(サタン)の沈黙”が、無いそうです。」
「何?」 緊張が走る。


「緒方さん?」
「ふむ。 “土星(サタン)の沈黙”を盗むためのカモフラージュだったのか…。」
「しかし、あの頑強なセキュリティをどうやって破ったのだ?」
「とりあえず、現場に来ていただけますかとのことです。」と、警官。
「ああ。 そうするしかないな。 アキラ君はどうする?」
アキラも、行こうかと思ったが、折角の花粉症対策が無駄になるのも…。


「僕はここにいます。 怪盗Hは、ネプチューンも盗みにくるかもしれない。  今まで、約束を違えることはなかった気がします。」


「では、ここは、芦原刑事。 君に任せるが、 大丈夫かね?」
「はーい。 大丈夫ですよ。」 アキラが心もとなさそうに、チラッと芦原刑事を見た。


その時である。 知らせに来た警官が、滑って転んだ。 押されて、隣に居た芦原刑事が、ネプチューンの薔薇に触った。
「あっ。 痛い。」
とげが刺さったみたいだ。
アキラと緒方警部は花が折れたら大変と、思わず、薔薇の茎を掴んだ。
「痛い。」 二人の声が同時に挙がった。 とたんに二人は、薔薇宇宙の世界へ…。


芦原刑事は、緒方警部に抱きついて、「市川巡査。何でこんなところに。」と、キスを迫っている。
緒方警部は、その芦原刑事を、「ここは温室なのに、何故、動物園になったのだ。 オランウータンが…。」 などと、騒いでいた。


アキラは、幻覚と戦いながらも、脳震盪を起こしたらしい警官を抱き起こした。 そして思わず。
「軽い。 この感覚は。 確か今日、学校で…。 まさか。 進藤?」
警官が目を覚ました。 その顔は、まさしく進藤だ。
「君に、こんなところで、あえるなんて。」
アキラもまた、芦原のようにキスを迫った。 ところが、警官は、拒否しない。 いや、違う。 彼は、いつの間にか、警官の制服から、フリフリレースのワンピースで、 真っ白いカチューシャをつけて、にこやかに微笑んでいる。


「君は一体…。」
「マスクを取らなきゃ、キスなんて、できないぜ。」と、これはまさしく、彼の口調だ。
アキラは、マスクを外してしまった。
幻想の進藤は、アキラに近づき、唇を重ねた。 薔薇の花びらのような感触が…。
「まさか。」  思わず、失神しそうなアキラ。
「これは一体。 進藤。」


しかし、そのあと、世界は暗転。 アキラは、激しいくしゃみと、涙が襲い、転げまわる結果に。


温室の騒ぎに気づいた警官たちが入り込んだ時には、ネプチューンの薔薇は、消えていた。
転んだ警官は、すでに居なかった。
そこには、怪盗Hの署名入り封筒と、“土星(サタン)の沈黙”が、置いてあった。
怪盗Hは、一日に二度は盗まない。 そう書かれていた。 そして、白いレースのカチューシャが…。
「いやぁ。 緒方警部。 すみませんでした。」と、芦原刑事。
アキラは、カチューシャを手に取りながら、つぶやいた。
「進藤? それとも怪盗H?」
その時、緒方の声が耳に響いた。
「ここに居ないのに、普段、想っている人が幻覚で現れるというわけだ。 ところで、アキラ君は、何を幻覚で見たんだい。」と。


「ヒカル。 無事でしたか。 良かった。 一度、あなたの足音を見失ったのですよ。」
薔薇を受け取り、そう、言ってから、佐為は、不審そうにヒカルを見た。
「革靴が滑って、転んで、頭を打ったんだ。」
そう答えたヒカルだが、ぼうっとした面持ちで、立っていたのだ。
頭を打った後遺症か? それとも…。


ヒカルは、すーっと、倒れた。
佐為は慌ててヒカルを抱き上げた。 ヒカルは眠りに落ちる前に一言。
「あいつに、キスをし…。」  そう言った。