『神曲』第八楽章〜過去への決別〜



立ち直ったアキラとは裏腹に、ヒカルは徐々に本当の目的のために動く事に…

哀しき決意の元、理事長室を訪れた。
仰々しい扉をノックして、ドアノブを捻る。
そこにはアキラの父、行洋がソファーに腰掛けてヒカルの突然の来訪に驚愕していた。
深呼吸しながら、ヒカルは行洋を見据えて…

「はじめましてって言った方がいいのかな。この場合…。」
扉に背を預けて、ヒカルはとてつもなくそっけなく言い放った。
誰が聞いても冷たい言葉。
しかい内心は動揺しながらの足元がふらつくほどの衝動を、ひた隠しながら…
手元の書類の束をテーブルに置いて、行洋はヒカルをどこか懐かしく見つめて
「美津江のこどもか…。なるほど目元が面影があるな。」
アキラに警告した態度とは打って変わって、ヒカルを優しく向かいいれる。


「ご両親は気の毒だったね。深く悼み申し上げる。」
頭を深く下げて、ヒカルの身の上を慮った。
本気で肩を震わせて、泣くのを堪えるようにしている大の大人に…
「どうしてそんな無責任な事言えるの。
あんたは俺の両親が死んで良かったと思っていたんじゃないの?」
「進藤君…」
目を見開いてヒカルの暴力的な言葉を聞いていた。
仮にも塔矢行洋と進藤両親は旧知。
この学園に在籍していた彼ら。
父はバイオリン奏者で母はハープ奏者。
かなりの名門の良家が未来の音楽家を目指して切磋琢磨していた。
「俺さあ。他人にはない絶対音感があるんだって。1000万人にひとりの才能だって。
でも父さんと母さんには全くなく、日本で俺以外でもう一人唯一それを持っている人がいるんだって。」
ヒカルがそれとなく師とも呼べる父親から、嫉妬かそれとも何らかの含みがあったのか、
ずっと聞かされていた疑惑。
「母さんが父さんと結婚する前、結婚前提で付き合っていた人がいたって。
でもその人…親が決めた人と結婚して、
その人と母さんとは結ばれなかったけど、その人…絶対音感の持ち主だったって。」


自分のしていることが、どんなに両親の愛を貶めているのかわかる。
でも秘密を暴くようだけど、その真実が分からなければ、ヒカルはずっと自分が信じられないままだ。
「進藤君…。君が言いたい事はわかる。多分推測通りだと思う。しかし…。」
「やっぱりそうだったんだ。でもだったら父さんや母さんが可哀想だよ。
だから俺はあんたを絶対赦さない。」


行洋が非難を述べようとしたが、ヒカルはもう何も聞きたくなかった。
耳を塞ぎ無意識に理事長室から、走って逃げだしていた。
これ以上は受け止められなかった。


「だからアキラと君は出会うべきじゃないんだ。」
行洋にとっての二人の存在は…
「そうお前たちは異母兄弟なのだから…」
兄のヒカルと弟のアキラ…
ヒカルも本当は手元に置きたかった。
しかし皮肉にも佐為と同様に間に合わなかった。
ヒカルが成長期に受けた身体とものキズは深く、それは現在も続いている。


唯一ヒカルが認めたのがアキラ…
何も知らないアキラの純粋な直向きさが、ヒカルにとっての救いだった。


行洋は苦悩を表情に露わしにながら、必死に考えあぐねていた。
ヒカルの存在を認知すれば、塔矢家が間違いなく崩壊する。
そしてこのままだと、ヒカルは自分との接点を隠すように、
自身が画策しなければならなくなり、ヒカルは一生才能や存在を否定され続ける。
決してヒカルが幸せになる事はない…
みんなが幸せになれるなんて事は、守るべき事の多い今の行洋には無理難題だった。
しかしヒカルが背を向けて走り去ったその扉をみて
「あのこのために何も出来ないどころか、償うことも赦されない自分はなんて愚かなんだ。」
さぞ心細く頼り無かっただろうヒカルのそれは、行洋の罪の結果だった。
自分を憎むことで救われるのならそれでいい。
実際それだけの事をヒカルに強いてきたのは確かだが、出来るなら…


「ヒカル…日本でだめなら…」
建前上だがヒカルを自分の息子としてではなく、先人の音楽家として海外で自身の手で育ててみたい。
それなら誰にも咎められず、ヒカルに自分の全てを与える事が出来る。
都合がいい事かもしれないが、それがヒカルの残された将来のためにきっと役立つ。

自分に憎悪があっても、後の時代の天才音楽奏者の進藤ヒカルの誕生に繋がる。
あれだけの逸材を埋もれさせることも実はない。
今季のフェスティバル、アキラに軍配があったが、
当のアキラですらあの決定には納得していないだろう。
一度だけヒカルの奨学生の面接会場で、音色を聞いた事があった。
しなやかで独創的なそれは、行洋ですら思わず感嘆した。
楽譜通りではなく、作曲者の思惑を遥かに超越した…


「決めた。私はあの子と共に海外移住して育ててみせる。」