『神曲』第七楽章〜違和感の正体〜



「ヒカル…お前は音楽は好きか?」

「うん。お父さん。」

ピアノを弾いていたヒカルに話しかける父親。
指が短く届かない音域に苦戦しながらも、頑張って楽譜に挑戦しているヒカル。
その必死な姿に父親は涙を浮かべていた。
生まれ付き絶対音感と五感が異常だったヒカル。
医師もその原因が何なのか分からないと診断したが、それが家族をかき乱した。
「美津江…ヒカルは本当に俺の子か?」
「何を言うんですか?疑っているんですか。私を…。」
「しかしあの能力は俺には無い。残念だが。
そしてあれと良く似ている事が出来る人物を俺は知っている。」
「冗談ではないです。私は彼とはもう別れたんですよ。」


フェスティバルが迫っているのに、アキラは心此処に在らず。
それを心配しているヒカルは、 アキラを誘って中学時代のサ−クル仲間のたまり場に行った。


防音環境の良い、マンションのひと部屋をメンバーで折半し賃貸して、
そこで自然と自分の楽器を携えて数名が集まる。
吹奏楽部に元々在籍していた筒井が、気の合う仲間に声をかけて今の形となったらしい。
「進藤くん。久しぶりだね。」
譜面台の上の楽譜(スコア)から目をはなして、穏やかで優しそうな黒ぶち眼鏡の青年がヒカルに話しかける。
「筒井さんも。いま時間大丈夫?」
「構わないよ。ところで学校生活は楽しいかい?」
「う〜ん。まあそこそこかな。」
ちょっと言葉に詰まってのヒカルの言葉をきいて、
アキラはますますフェスティバルの辞退を考えそうになるが


「あっ。筒井さん紹介するね。俺の学校の友達でアキラっていうんだ。」
ヒカルがアキラの腕をからませて、引っ張るように入口で呆然と立ちすくんでいたアキラを紹介する。
「はじめまして。塔矢アキラと申します。」
軽く会釈して筒井を見上げると…
「こちらこそはじめまして。進藤君の中学の先輩で筒井ともうします。しかし驚きました。」
「何をですか。」
「進藤君がまさか自分から誰かを連れてくるなんて。」
しかもアキラの風貌からして、どうして二人は一緒にいるのか謎な顔をしていた。
アキラと筒井が話している中、他に来ていた小宮というクラリネット奏者に呼ばれて、
ヒカルはそっちに行き話していた。
「進藤君の事情は知っていますか?塔矢くんは?」
意味深な話題を筒井はアキラに振ってきた。
「何かあるんですか?僕は彼の事を何も知らなくて…」
全く何を語れるほど、ヒカルとアキラのプライベートには接点がない。
いつも学園の中でしか、話す機会もなく、こうしてはじめて屋外に出掛けている始末。
恥ずかしいもので、ヒカルが奨学生で苦労している事…音感が天才と呼べるほど優れている事…
多様な楽器に瞬時に適応出来る事…そして…


「でも時々進藤も自覚していないのか…陰りが見え感じるんです。」
最近アキラ自身が嗅ぎ取ったヒカルの微妙な変化。
何とも言えないヒカルの違和感。
それを聞いた筒井は、ちょっと言葉を濁そうとしたが
「もし何か僕が知らなくって、それが進藤を苦しめる事になったら、絶対僕は自分を赦せない。
だからもし何か手掛かりとなる事があればどうか教えてください。」
必死になって筒井に縋る様な瞳で、迫っていた。
その熱意と、避けては通れない二人の友情の未来のために、筒井は決心してアキラに向かい合った。



「進藤君は早くに両親を亡くされ、僕達では想像するにも余りある悲惨な扱いを、
親戚や周囲から受けていたらしいんだ。」
「……。」
筒井とてヒカルのそれを知ったのは、風の便りでしかなかった。
真実を本人からは聞き出すなんて無粋な真似は、彼の性格上無理だった。
「僕と会った頃、いつも屋上で弱い声で歌を歌っていた。」
刹那的な友人ならヒカルは誰よりも多く、でも自分を曝け出せる他人など存在しなかった。
天国を空の上と思い、自分を早くに置いて逝ってしまった両親を思い悩んでの行動なのか。
「僕はその歌が何なのかだけは分かった。昔母親が寝付けない子供に聞かせる子守唄…。」
温かい布団で、優しい母親との間に残った確かな絆と思い出…。
当たり前なそんな些細なことすら、ヒカルは今は手の届かない幻(にちじょう)…
だから自分には過ぎた望みを持たず、素直に流れゆく現実をただ精一杯生きている。
きっと僕の知っている誰よりも…


「僕は甘えていたんだ。進藤がそんなにも全てに必死であったのに…。
僕は与えられた環境ですら本当に感謝して、頑張っていかなくてはならなかったのに。」
アキラは意図してヒカルがここに連れてきたのかわからないが、何か分からないヒカルの意志を感じた。
「本当に嫌気がさすほどに、僕はお坊ちゃんだったと思います。比べて言っているのではなく…」
「君は本当に進藤君が大切なんだね。」
嬉しそうに微笑みながら筒井は立ち上がってアキラの肩を叩いた。
まるで二人のこれからを応援してくれているようなそれに、アキラは無自覚に肩を震わせ泣いていた。


(進藤…君のために僕は強くなるよ…誰よりも君を守れるくらいに…)


それを傍目で見ていたヒカルは…
(筒井さんありがとう。アキラ…良かった。
お前にはこんな事で立ち止まって貰ったら困るんだ。これから起こる事についても…)

ヒカルは拳を握り、真剣な表情でアキラを見据えていた。