『神曲』第六楽章〜偽りの現実〜



放課後…アキラとヒカルは微妙な空気を感じていた。
少し気持ちが離れているような、そんなまどろっこしい気分に。
いつもと変わらない会話でも、アキラはヒカルの言葉を所々疑って聞いていた。


(駄目だ。こんな感情をヒカルに向けるなんて。あの日以来僕はどうしてしまったんだ。)

“音楽を愛していない”

そのたった一言がアキラの頭を駆け巡った。
何処からみてもそんな印象を受けない相手からの波紋。
天真爛漫なその行動を、どこをそんなにも疑う部分がある?
だが時折ヒカルがみせる諦めにも似た、自分を抑えてアキラを優先する言葉。
虚無な感情が微かに伝わっているのは事実だ。
しかしそうとは思いたくないそんな狭間が、苦悩と変わっていく。
今まで感じた事のないヒカルの音色。
やっと廻りあえた穏やかな友人。
(信じたい…だから冗談だよね。ヒカル…)
その上…


「アキラ?お前手が止まっているぞ。どうしたんだ?」
「えっ?あっ…そうだね。」
「お前らしくも無い。さては今日の夕飯でも考えていたな。寮生の俺はとんかつ定食らしいけど。」
何気ないそれはヒカルの演技なのか?それが知りたくそっと腰を引き寄せヒカルの唇を奪った。
久しぶりのそれに、ヒカルは次第に翻弄されていく。
ふくよかなそれを軽く挟んで、そして舌で嘗め回す。
乾いた表面がアキラの蜜で卑猥に見える。
鈍い光と共に、煌きそしてアキラはわざと噛み付いた。


「つっ…!!ううん…。」
口内を血の味が占めていき、これがヒカルの誘う身体に流れるものだと見せつけ味わう。
徐々にヒカルの呼吸を奪っていく。
互いの舌を絡めて、本当の自分を曝け出す。
熱く頬までもそれに反応して、それぞれの中には自分しかいないとそれを確かめる。
ヒカルの後頭部に手を置いて、更に噛み付くようにヒカルを陥落させる。
「ふぅ・・う・・ん。うう・・ん。」
瞳の端から苦痛か、快楽なのか涙が伝う。


そして脱ぎ散らかされた部屋で、互いは見詰め合う。
数回性交をしているから、抵抗は無いがそれでもいつも新鮮な気分になる。
アキラは決して上手い方ではないが、ヒカルはそれでも感じて泣く。
それが嬉しく何度も愛撫するアキラ。
幸せそうにヒカルを求めるアキラの素直な気持ち。
精一杯受け止めようとするが、しかし今日ヒカルは迷っていた。


(お前は偽善者でないって。そうだよ。こんな事を本当は出来ないんだ。どう考えても…)
緒方の言葉がヒカルを困惑させていた。
正確にはそうではなく、ヒカル自身の問題だった。


「ヒカル…。学校はどうですか?」
「佐為兄。大丈夫だって。勉強もどうにかついていけるし…。」
心配性な佐為に気遣われないように、定期的に藤原兄弟に会いに行く。
本当の家族にように迎えてくれた場所。
ヒカルは此処が好きだった。
「ヒカル。今日は慎一郎お手製のラ−メンをつくってあげよう。」
好物のラ−メンをどうやら作ってくれるらしい。
「慎兄。メンマ多い目な。」
「わかった。任せておいてくれ。」
そしてそんな二人を見守り、レコ−ドをかけに佐為は席をはなれた。


「しかし、ヒカルは飲み込みが早い。もう首席と争っているんですか?」
「そんなことはねえよ。俺はどうしようもないから音楽をしているんだ。」
ヒカルの曇った表情を読み取り、二人は楽屋に案内して
「あなたのバイオリンの腕前。私が審査してあげましょう。」
バイオリンケ−スを開いて、ヒカルはため息をついた。
(佐為兄は音でいつも俺の調子をみるらしいけど、大丈夫なのに…)


軽くチュ−ニングをして、佐為のフル−トと合奏した。
正直佐為は神童と言わしめた位、その手腕は秀でていた。
一歳の頃から言葉を覚えて、二歳でピアノに興味をもった。
しかしピアニストとしての道ではなく、友人冴木の誘いで鑑賞したコンサ−ト。
そこで高音楽器でありながら、その小さい楽器で奏でられ、 存在感を埋没させない楽器フル−トに魅せられた。
それから自分の目指す道を見出し、オ−ストリア留学を実行した。
そこでも持ち前の誠実さと物腰の柔らかさで、何事もなく才能を開花させた。
輝いて見える兄の背中を追って、 慎一郎も数ヵ月後にピッコロを引っ提げて留学を決行した。
兄弟は互いに刺激し合って、そこで揉まれて満たされていた。
しかし皮肉にもその夢に満ちた時間、それがヒカルの悪夢の時間と同時だった。


(ヒカル…。ごめんね。私が日本を離れている間に貴方は過酷な運命を。
それなのに私は何も出来なかった。許して下さい…)
途方も無い罪悪感をもって佐為はヒカルを育てた。
ヒカルが笑って過ごせる場所を作ってあげたくって。


(しかしヒカル…。上手くなりました。私の音色にここまであわせられるなんて。)
数年前には楽譜すらよめなかったヒカル。
否…読む事すらあの時の精神状態では叶わなかった。
全ての五感を閉ざしていたヒカル。
(でもこの音にはそれ以上の希望が満ちています。 貴方が癒される日も近いのでしょうか?)


「昨日の搭矢の残り香が俺を苦しめる。 でも父さん。母さん。あいつには心まであげないから。だからごめん。」
ポケットにしまっていた古びた写真。
それを片手にヒカルは呟きを漏らして、眸を潤ませた。
そして門限のため、寮まで戻っていった。