泡沫の白い鳥〜第三話『傷付いた愛情』
泣き腫らした真っ赤になった眼と、濡れた枕。
力が入らないと言うより、それを放棄している正直な精神(こころ)。
疑いたいのに、真剣な毅然とした言い方をする彼女を疑いたくない心理。
真実は何所のあるのか手探りな自分を解放したかった・・そして。
(俺はどうしたいんだろう・・もう解らない)
素直に親友だったら、原因はどうであれ責任を取って彼女を幸せにしてやれと言える。
世間が怖いのなら力添えになってやるとも・・
でも実際はそうではない。
【進藤ヒカルは塔矢アキラを深く愛している】
そして多分・・塔矢アキラも・・
だからこそ遣り切れない悲愴感が付き纏う。
(でも・・仮に真実だったらアキラの子供が産まれる。俺達がどんなに思っても得られない愛の集大成が・・)
そしてアキラの血を引いている魂には罪は無い。
(悪いのは俺だ。何時まで経ってもあいつの手から逃れられない俺が・・)
そう思うことで自分を貶める事で、気持ちを奮い立たせようと頑張っていた。
御人好しにも程があるとはこの事で、早苗の縋りつく態度に負けてアキラと彼女の対面を約束してしまった。
だから必然的にヒカルから話し掛ける羽目となった。
携帯でリダイヤルボタンを表示し、アキラを説得しようと思った。
しかし何と言えば良いのか、唇が戦慄いていた。
長い呼び出しコ−ルがヒカルを緊張させる。
異常までに上昇する心拍数。
自室はこんなに広いのに、意識がどんどん狭くなる。
数十秒後、アキラが携帯に出た。
「もしもし・・塔矢ですけど・・」
間近に聞こえる声変わり仕立ての声。
ヒカルが誰とも間違わない声色。
「もしもし・・進藤ですけど、塔矢君今時間がありますか?」
意外にも上手く切り出せた。
しかしアキラは即答せず・・
「・・・・・・」
微妙な沈黙が何を意味しているのか解らず
「・・・?・・もしもし・・」
再度問い掛け、反応を待つ。
そして少しばかり待った後、携帯の向こう側で押し殺した冷たい笑い声が・・
「この僕を【塔矢君】だと・・はははっ・・此処まで拒絶されているとは・・」
「・・・・・えっ・・」
「ついには親友以下か・・余りにも可笑しくって笑いが止まらないよ・・進藤。」
壊れたような雰囲気を携帯を通じて感じさせた。
「どうしたんだ・・一体・・」
「僕の何が気に食わない?君をこんなに愛しているこの僕の何が・・」
悲鳴にも聞こえるその言葉。
しかしそんな事で怯んでは本題には辿り着けない。
必死で踏ん張り、冷たい言葉をヒカル自身も吐いた。
「塔矢・・。その愛情は本当に俺限定か・・それを問いに電話した。」
「・・何が言いたいんだ・・」
無駄な事は言わないように注意を払い、言葉を簡潔に頭で纏め
「お前。入院中看護婦に手を出しただろう。しかもその彼女はお前の子供を懐妊中だと・・どっちがふざけているんだ。」
これじゃ浮気を責めている者と変わらないなぁ・・ともヒカルは感じたが
(否定して欲しい様な気持ちも有る。だから・・)
彼女の勘違いか、若しくはヤラセか?
棋士の塔矢アキラと言えば今をときめく有望視される若手。
だから手薬煉をひいて待っている女性は多い。
でもそんな軽い様に受け取れなかったと言う確信もある。
だが少ない期待はしても罰は当たらないと返事を待った。
しかし・・
「何の事だ?・・もっもしかして・・」
しかしとことん天はヒカルを見放していた。
潔白ではなく、訳有りを物語って2人に降り掛かる。
「身に覚えがあるらしいのなら話しは早い。その彼女が3日後の5時お前を訪ねに棋院にやってくる。」
「進藤・・」
言い訳をしないアキラにヒカルの心は落胆した。
砕け散った信頼を込めていた愛情。
それをヒカル自身拒否していたのも事実だった。
しかしアキラの素行は何を措いても憎むべきだった。
「もしかしてお前、期待していたのか?俺が電話を掛けたのはお前と恋愛ゴッコする為にと・・。一生来ないから安心しろ。」
「進藤・・僕の話を・・」
今更タイミングを外して、ヒカルに言い逃れを伝えようと必死になるアキラに、最後の鉄槌を下す。
「いつも僕を感じろだって・・だったらお前は俺の憎悪を思い知れ。もうこれ以上話すことは無いから・・」
一方的に掛けて、一方的に切った携帯は後悔を手に残す。
未練はいつか風化して、静かに思い出となる。
だからこれで良いのだとヒカルはベッドで横たわり、天井を見上げた。
この3ヶ月を振り返り、らしくない感情に笑いが零れる。
きっと自分は恋を履き違えていたのだと・・
この一件はそれを気付かせたのだと。
そして綺麗さっぱりと恋のピリオドを打った。
あくまでヒカルにとっては・・
麻疹のような恋愛も悪くないと、ヒカルはあれから一週間後のある日、藤崎あかりを訪ねた。
塔矢アキラの事で振り回される前に、交際していた彼女に・・
家が近所であり、母親同士が友人関係だったために、苦も無く優しい間柄になり、今では押しも押されぬ恋人同士。
あかりが恋愛に夢中で勉学が疎かになっているからと言う理由で、距離を置いての恋をしていた。
そんな不安定な部分にアキラがヒカルの心の中で居座ってしまった。
だから踏み外しかけたレ−ルを戻すためには、あかりに会いに行く必要があった。
祭日の昼前の一時に藤崎家のチャイムが鳴る。
「ヒカル。いらっしゃい・・ってどうしたの?」
手荷物にあかりの好物シュ−クリ−ムを携えて待っていたが、何故か玄関で彼女に不思議がられた。
「何言っているんだ?彼氏が遥々来たって言うのに・・」
そう言って剥れた。
最近色気が増して、すっかりお転婆ではなくなったあかりを見て安心する。
「だって・・来るんだったら電話してくれても・・ヒカルに新色の服を見せようと張り切っていたのに・・」
「別に今のままで良いって・・それより上がっていいか?」
玄関で待ち惚けさせられ、ヒカルは冬の寒さが堪えると訴えていた。
それにあかりは気付き奥の客間に案内した。
「ごめんねヒカル。ココアと温かいお茶どっちが良い?」
「温かいお茶が欲しい。」
畳の落ち着いた和室に、藺草の香りが漂う。
此処は自分の家より安堵を覚える。
まるで赤ん坊の揺り篭のように・・
そして運ばれたお茶を啜り・・
「あかり・・ちょっと見ない内に痩せたんじゃないのか?夜食は食っているのか。」
「ヒカルは無知なんだから・・暴飲暴食は思考を鈍らせ、健康上にも悪いんだよ。」
そう言いつつもシュ−クリ−ムを美味しそうに頬張る。
「それよりヒカルも何だか一皮剥けたって感じ。どんどん逞しくなって行く。囲碁って不思議・・」
「そうかも知れねぇ。俺みたいな無気力な奴を此処まで成長させるんだから・・」
そしてゆっくりとあかりに近付き、キスをする。
余りにもいきなりだったから、あかりは茫然自失でヒカルを見詰めた。
そして頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
何故かもう一度その仕種が見たくって再びキスをすると
「もう!!急だったから息が出来ないよ。それよりヒカルのキスってそんなに上手かったかな?」
「それどういう意味だ?あかり。」
「わぁ!?怒んないでね。以前は壊れ物を扱うようだったのが、大人のキスの執拗さが入ったって言うの?」
淡白さに獰猛さが加わったとあかりなりに説明した。
相手を侵略してまで求める雄の本性が・・。
やっぱりこう言った本人の自覚の無い変化まで汲み取るあかりは凄いと感服した。
それは確かにヒカルには無かった貪欲さ。
何かを革命していく行動力。
そしてそれをまたしても仕込んだのは・・
(絶対あいつだよなぁ。俺をこうまで強引にさせたのは・・)
他愛無い事まで支配されているようで未だ落ち着かない。
そして2人の穏やかな時間は過ぎて夕方ヒカルは帰路に着いた。
足取りはゆったりとしてアスファルトの道を歩く。
行きの憂鬱さから一変して、あかりからのパワ−で気分は幸せだった。
しかし家に差し掛かる角で後ろから抱きつかれる。
羽交い絞めに近く、人違いでもないはっきりとした抱擁がヒカルを動揺させる。
理由はどうであれ気分が良いものじゃないそれをどうにかしたくて
「ちょっといきなり何をするんだ!!放せよ!!」
そう言い切ったヒカルを片腕で抱き締め、空いた手で顎を掴み無理矢理後ろに向けさせる。
そして誰かも判断できないヒカルの唇を奪う。
ヒカルの視界を覆う者は、舌まで挿入しヒカルを辱めた。
家々立ち並ぶ一角で、往来の目が嫌でも入るそこで。
ましてや自宅が目と鼻先であり、言い逃れが出来ないこの場所で。
女性ではないのは間違えないと、ヒカルは激しい接吻を受け続けた。
そして次第に満足したその者の正体を知る。
お河童の綺麗な髪が映える上、整った顔立ち。
「うっっ・・と・・塔矢。どうしてこんな真似を・・」
息が整わないヒカルは咳き込んだ。
唇の端にはアキラとの唾液が筋状に伝っていた。
咽込むそれを凝視したアキラは
「君が引き合わせた彼女に会ったよ。そしてそれが紛れもない事実だと。しかし君はその後彼女に何を言ったんだ?」
「何も特には言ってねぇよ・・」
「嘘だ・・君は無責任にも『塔矢は良い父親になりますから』何て言ったんだろう。何所まで僕を馬鹿にしたら気が済むんだ。」
そう言って憤りを露にする。
そしてアキラにとって運がよく、ヒカルにとって不運にもタクシ−が通り掛った。
しかもただ走行中・送迎中・回送ならば良かった。
寄りにも寄って空車の表示があり、アキラは手を上げて乗車を望んだ。
ヒカルは逃げようともがくが、怒りに満ちたアキラの腕力に負けた。
つくづく何所からそんな力が出てくるのか疑いたくなる。
そして無慈悲にも押し込められたタクシ−内で、アキラは男同士では不似合いな場所を指定する。
流石に行きたくないと口を開こうとするが、運転手はアキラの進路を目指す。
気難しそうな風体な中年ドライバ−に、きっかけを奪われたのが正直な意見だが・・
例えようも無い恐怖が車内を沈黙させる。
そしてあっと言う間にその目的地に到着した。
桃色の特殊な建築物が聳え立つ其処に。
そう・・都会の歓楽街にある『ラブホテル』に・・