泡沫の白い鳥〜第二話『確かな背徳心』



拒絶して欲しかった。いや、正して欲しかった。
この思いは現実には不必要なものと、焼却して灰にしてくれてかまわなかった。
しかし自分では処理できない業火のような、産まれたての雛鳥のような思いを愛おしくも思えていた。
許されないと知りながら・・


瞳を閉じながらアキラに選択権を譲った。
ヒカル自身それが一番賢明だと判断したからだった。
しかしそれは同時に決定的に2人を苦難へと運んだ。
「進藤・・それは賢しい僕には通用しない。ワザと僕を嗾けて僕の思いを砕こうとしたらしいけど、余り侮らない方が良い。」
「・・・・」
「現段階で君は僕以外を愛せるのか?僕に至ってもだ。君となら快楽を得られるが、他の女性からまして男性から得ようとは微塵も思わない。」
そう言いながらにじり寄り、ヒカルを抱き寄せる。
自分のコ−トを大事そうに羽織っている恋しい相手。
これを無残に引き剥がし、ボロ雑巾の様な扱いをヒカルがしていればアキラも素直に受け入れられた。
天邪鬼な自覚のないそれが振子時計のように決断を鈍らせる。


そうとは知らず、唯黙って抱擁に浸っていたヒカルは
(どうして、こんな時にまで俺はこいつをもっと拒めないんだ。)
精一杯の抵抗と言わんばかりに、アキラの胸を拳で軽く殴っていた。
無いに等しい防御に、安堵した彼は
「数週間ぶりの君の香り・・禁欲していたけど無理みたいだ・・」
ゆっくりとヒカルの顎を指で上向きにさせ、一方的に口付ける。
ふくよかな唇を味わいながら、舌を挿入しようと入り口を嘗め回す。
瞳孔を開きながら次第に潤んでくるヒカルに、地獄の片道切符を与える。
ざらざらと滑る感触が正直、例えようもない気分にする。
誰が訪れても可笑しくない場所だと言うのもそうだったが・・
たったこれだけで溺れてはならないと、頭を振り乱し女々しく逃げようとする。
目の前に置いてある碁盤を引っ繰り返し、アキラの手から逃れたが・・


「進藤・・忘れるな。既に僕達は契った恋人同士だと。それに今回はこれで済ますが同じ職場で存在している。どう言う意味か解るかい?」
「何が言いたい。」
静かに怒りを称えた様で、歓喜にも見えるアキラの表情は危険だ。
怯みそうになるヒカルは固唾を呑む。
そしてまたアキラは接近し、襖で背を預ける様にヒカルは立ち竦んだ。
そのヒカルの頬の側面をゆっくりと撫でる。
囲碁で磨り減った指は歪で、必要以上に感触を与えていた。
そして凝視しながらアキラはヒカルの反応を嘲笑う。
(君は嘘をつくのが下手だな。其処が僕を漬け込ませている事に何故気付かない・・)
しかしその後呪縛のように囁く。
「何時でも君は僕を感じなくてはならない。此処ですら君を解放する場所ではないと・・」
そう言うなりヒカルの視界を防ぎ、口を僅かに開けていた隙を狙い接吻を・・
今度は舌を挿入し、彼の呼吸を奪う。
歯列を割り、ヒカルの舌を絡めとりお互いの唾液を交流させる。
生温かい口腔は精神を狂わす甘い熱。
滴り落ちる零れた唾液は甘美な蜜。
(この行為を甘んじて受け入れる癖に・・君は。全ては君が悪いのだから仕方が無い。)
少しずつ歪んでいる双方の考えを誰も止められない。


証明を消してアキラはヒカルを暗闇の中所有した。
喘ぎ声が漏れないようにヒカルの口にハンカチを詰めて。
両腕を自分のネクタイで拘束し、自由を奪いながら。
精液が畳に零れないようにアキラのコ−トを下敷きに、ヒカルを組み敷いた。
彼が自分のものだと見せ付けるような、噛み付くような愛撫。
自分をモラルに縛られ切り捨てようとする、ヒカルの仕打ちに対する憤りも混じり手酷く攻めたてる。
痛いから止めてと懇願するのにも構わず、打ち付けた楔。
自分に乱れ善がるヒカルを見たいがゆえに。
そして全裸状態で過ちを繰り返した。


アキラは放心状態のヒカルを整わせ、すっきりした面立ちで自分だけタクシ−で帰宅した。
一方ヒカルはそれを見送り、散らかした碁盤を片付け帰路につく。
まだぼやけた意識の中で・・
しかし直ぐに現実に戻り新たに増えた罪の意識が、夜の闇夜に溶け込む。
街灯灯る公園のベンチに腰掛け、ヒカルは孤独に涙した。
向かい側の芝生で男女が愛を確かめ合い、幸せを満喫していた。
自分のものだと疑っていない男性は余裕でリ−ドする。
彼は自分に骨抜きだと信じている女性は、両手で受け止める。
囀るように世界を演出する2人を憎悪でヒカルは眺めていた。
さも当然の如く愛を誓える立場。
自分達には絶対訪れない幸福。
(どうして何の障害も無く、俺達は恋人同士として存在出来なかったんだ。これじゃ惨めだ。)
俺が男であいつも男だから・・。


自分を抱きしめながら、アキラに接近され染み付いた匂いを全身に取り込む。
また一段と大人の身体つきに成長していた彼を喜ばしく思え、些細な事で幸せになる。
でも隣には肝心な相手は不在である。
物寂しい現実が女性を自分に置き換えて見ていた。
艶かしい仕種で誘いながら、男を駆り立てる。
(あの日も今日も・・俺はあいつにそんな顔をしていたのか・・)
どうでもいいが、自分からアキラを抱きたいとは思えない。
そんな屈辱が相応しくないと言うのもそうだが、あいつから俺に何もかも教えて欲しい。
囲碁界へ導いたように。
最初から受動的な俺なのだから・・
心はこれ以上無い位素直になれる。
細胞の隅々までアキラが居ない事を憂いて震えていた。
もっと沢山2人の時間が欲しい・・
お互いをこれ以上無い程雁字搦めにしたい。
なのに共倒れは決して有ってはならないと、断固拒絶を決め込む。
(もう・・何もかも上手くいかない。一層このまま引退しようかなぁ・・)
全てを放棄すればこの不毛な苦悩は消えていくのでは・・と。
(どうせ俺は元々この世界にはイレギュラ−だったんだから・・)
投げ遣りになりそうな心境を留めたのは、リュックに刺さる扇子だった。


別に値が張る物ではなく、棋院の売店で購入した他愛無いもの。
しかしヒカルにとっては戒めの役割を果たしていた。
突然現れたと思ったら、別れも言わせて貰えず在るべき場所に帰っていった幽霊。
ヒカルのために存在してくれた大切な・・
(そうだな。これは俺だけの道じゃない。お前と歩かなくてはならないんだもんな。)
でもこのままでは身動きが取れない。
其処に辿り着くにはもう一人とも決着をつけなくてはならない。
(逃げ切ろう。例え今の関係を終わりにしても・・)
しかしその楽観的思考ですら運命は許さなかった。




「なぁ・・進藤。お前最近付き合い悪いぞ。どうしたんだ?」
棋院でのあれから2日後、和谷が久しぶりに俺に話し掛けた。
酷く心配した様子でヒカルを見詰める。
和谷が疎遠していたからではなく、ヒカル自身警戒心を気さくな友人にまで広げていた所為だった。
アキラに自分の領域を侵入させないために・・
しかし他者からはそれは奇行と映る。
唯でさえパ−ソナルが天真爛漫であったのだから、根暗一歩手前に陥り掛けのヒカルを怪しまない訳が無い。
当然のように気遣いを誰かにされる。
「別に何でもねぇよ。近々大手合いがあるから勉強していたんだよ。悪いな。」
「それならそう言ってくれよな。水臭いぜ。俺も一緒に勉強したら駄目か?」
こう見えても和谷は勉強熱心だ。
囲碁が大好きで自分自らこの世界に足を踏み入れた。
迷う事無くただ前だけを目指して・・
(根本的に俺とは違うんだなぁ。情熱のあり方が・・それに・・)
「いいぜ。今日も4時から別の部屋が空くらしいから、そこでやろうぜ。」
「そうだなぁ。そこでお前をぺしゃんこにしてやる。」
「それは問屋が卸さないぜ。差を付けて勝利してやる。」
(和谷と一緒にいれば、あいつに振り回されたりしない。絶対に・・)



昼食を済ませ、約束の4時まで少しばかり時間を持て余した。
それをどうするのか考えていた所、棋院の前を行ったり来たりする女性を見掛けた。
背は165cm位の美人であり、薄化粧の二重瞼。
淡い水色のワンピ−スを着て、脇には紐掛けてある品の良いバッグ。
一見何処かのOLを思わせるが、正確にはそうではなかった。
困ったように拳を握り締め、彷徨う姿にヒカルは必然的に訳を聞きたくなり、彼女に接近する。
「どうされましたか?棋院に何か御用で・・」
そうヒカルがストレ−トに問い掛けると
「あっ・・あのう。私大林早苗と申します。突然で申し訳ありませんが・・塔矢アキラさんとお会いしたいんです。」
(えっ・・塔矢に?一体何の用なんだ?)
酷く符号が合わない取り合わせに困惑するヒカルだったが
「構いませんけど・・どう言った事で塔矢と会いたいんですか?」
これじゃ差し出がましいとは思ったが、意外にも彼女はヒカルをその雰囲気で信用できると感じ近辺の人目が無い場所に促す。
そして落ち着いたようにヒカルに話す。
「唐突に話します。私はある総合病院の看護婦をしております。勿論独身です。その私の勤務する病院にある日少年が運ばれてきたんです。」
「それはもしかして・・」
「察しの通り塔矢アキラです。彼は脳震盪であり周囲を認識出来ないでいました。だから・・」




ヒカルは思いもよらない悪夢を体験した。
これ以上無い位打ちのめされた。
それでも気力を振り絞り、和谷に約束のキャンセルを携帯で伝えた。
小刻みに震える動揺を隠せない身体。
胸元には彼女が流した涙が染み付いていた。
互いに辛い現実を味わう事になってしまった2人。
有るべき相手とは障害が・・
偶然が引き起こしたものには悲劇が・・
(塔矢・・お前・・最低過ぎる・・)
夢現で有ったとしても許されない行為。
(しかもどうして俺がこんな裏切りを一番最初に知らなくてはならないんだ。やっぱりもう逃れられないのか・・あいつから・・)
そして彼女が言った言葉が頭の中を苛む。

『判別が付かない強制的な性行為を強いられ、妊娠二ヶ月目なんです』