泡沫の白い鳥〜第一話『忘れたい思い』



愛が万人を決して救わない事を自身の立場で思い知った。
何処かのキャッチフレ−ズで書いてある事は机上の空論だと・・
でもだったらこの思いは汚らわしい産物なのか?
その答えを知りたいくせに踏み出せない自分を何所か嫌いになりかけた。あの日まで・・

プロ棋士に休息は無い。
日々の鍛錬が棋譜の勉強が重要だった。
だからその日も棋院の手合い部屋で、一人黙々と碁盤を前に過ごしていた。
つい先程まで大勢の人数を収容していた部屋とは、全く雰囲気を一変して静寂が流れる。
無駄に広い分、熱気が逃げてしまいエアコンの恩恵を得られない肌寒い此処・・
それでもとりつかれた様に延々と棋譜並べに没頭する。
そんな中自分の肩に上着を掛けて温めてくれた人物がいた。



「熱心なのは感心するが、風邪をひいたら意味が無いだろう?進藤。」
「塔矢・・お前帰ったんじゃないのか?こんな時間に一体・・」
目を見開いて問う自分を鋭い眼差しで見詰め返し・・
「君の家に電話を掛けたら繋がらないし、多分此処だと思って・・」
「俺に?何の用なんだ・・この前の話を蒸し返したいのか。」
彼のコ−トを握り締め丸くなりながらそう呟いた。
少しでも距離を置くためにしている行動と感じ取った彼・・塔矢アキラは複雑な表情をした。
小動物のような仕種で、母性本能と嗜虐精神を駆り立てる進藤ヒカル。
しかしヒカルはそんな自分が大嫌いだった。
男の様に乱暴なくせに、肝心の事となると女々しさが目立つ自分。
アキラが折角優しくしてくれているのに、素直に喜べない愚かさ。
警戒心だけを武器に頑張っている事に、そろそろ限界が来る。
「僕は中途半端に君と向き合った積もりは無い。それに意図しなくとも両思いは事実だ。」
「違う!!お前が俺の心を無理やり暴いたんだ!あんなのは暴力だ。」
そうして心を閉ざすヒカルに手を伸ばすと・・
「勘弁してくれ・・もう・・俺はアキラをこれ以上自分に住まわせたくない。」


震えている全身があの日を思い出す。
もう消えてしまった首筋の鬱血。
手首の指が食い込んだ痣。
何より腰に覚えさせられた熱い情熱。
全てを忘却したくって友人とも距離を置いた。
本当は泣き付きたい位の心境だったが、事情が異常だったため打ち明けられなかった。
唯でさえ情緒不安定な自分をコントロ−ル出来ないのに、どうしてこんな事になってしまったのか。
「だったらどうして何が何でも抵抗しなかった?同じ男同士腕力には大差ないはずだ。」
「はっっ・・散々抱いておいて何を言っているんだ・・お前は。傲慢なのもいい加減にしろよ。」
腹立たしい言い訳にヒカルは嫌悪した。
被害者と加害者を履き違えているとしか受け取れないアキラの発言。
謝ってくれと期待はしていないが、これじゃあんまりだった。
抵抗出来なかったら【了解】したと勘違いしている者と大差ない。
確かに自分は男性だから、異性行為とは勝手が違う。
脂肪分で構成されている女性とは違い、筋肉で構築されている者が男性だ。
しかも体格差は無いに等しい者からの暴挙。
凌げない事は無いが・・恐怖があの時は勝ってしまった。
親友にまで互いを認識しあった者に、支配される事の困惑。
一枚づつ外壁となっている服を剥がされて行く混乱。
そして生身の肉体で絡み合う不自然さ。
何から何までが初体験で、防御する術を知らない。


「僕が傲慢だったら君は哀れな犠牲者か・・そっちこそふざけるな。」
「ふざけていない。俺は・・」
「物欲しげに揺れていた自分は何だ?自分じゃ行動に出られないくせに、僕のやり方が気に食わないと非難する。君は何様だ。」
そう一方的に感情を露にするアキラに俺は苦しめられていた。
ずるいのは確かに自分だった。
好敵手をそれ以上の感情で区分した自分が・・

自分を囲碁界に導いた幽霊・・藤原佐為。
こいのぼりが戦ぐあの日、喧嘩別れした自分達。
空っぽになり、一人にされた孤独を意外な立場の人物が埋めた。
それが目の前の男だった。


身代わりではなく、違う場所で自分を待っててくれる優しい者。
沢山自分のために回り道して、時間を稼いでくれた。
その事を不思議と疑問に思い、訳を聞きたいと探っていた時生まれた興味。
ほんの些細な事だったため、その時は大した事は無かった。
四六時中アキラを追っていた訳じゃ無く、俺自身の環境は様々だった。
幼馴染・学友・院生仲間・・挙げればきりが無い周囲の人。
彼等と夢中になにかしている時間の方が遥かに多い。
でもそれなのにアキラが酷く大きく圧し掛かった。
健康管理を心掛けているアキラが急に手合いを欠席した。
何があったのかは周囲の多種多様の憶測で、真実が上手く伝わらず囲碁界に緊張が走る。
3日後になっても姿を見せないでいた。
だが律儀に碁盤の向こう側で対局者が沈黙しながら待っていた。
しかし座布団に座り、碁石を打つ筈の少年は未だ来ない。
痺れを切らせて立ち上がり、取り仕切っている者に所在を聞いていた。
するとアキラが交通事故に遭ったと・・
その時ヒカルも手合いだった為、近い距離の所での2人の話が耳に入った。
そして目の前が真っ暗になった。
こんな気分になったのは、プロになった時にアキラが父親の急病で欠席した時以来だった。
居ても立ってもいられず、状況を知るため驚異的な早碁を駆使した。
(何故・・こんなにも俺は動揺しているんだろう?あいつの事で・・)
親友だから?だったら他の人がそんな場面に遭遇してもそう思うのだろうか?
(いや、違う!だったらこんなにも震えたりしない・・乱されたりしない。)
そう思ってタクシ−でアキラの元へ向かう。


其処の病院を記したメモを握り潰しながら、鼓動を早鐘のように刻む。
聳え立つ白塗りの大病院が俺の心を乱す。
足場が不安定だと精神を無意味に追い詰める。
看護婦に病室が個室だと聞き、面会謝絶ではないかと動揺した。
だから蒼白になりながら、エレベ−タ−で蹲っていた。
そして辿り着いた病室でヒカルは点滴に打たれ眠るアキラを見た。
包帯に巻かれて痛々しいような姿。
側には見舞い客からの果物のギフトが置いてあった。
しかしそれでも白いシ−ツが安心感より、不安を呼んでいたが・・
『うっ・・ん。進藤。僕は死にたくない。君を愛した気持ちを抱えたまま・・』
そうたどたどしい寝言を場所も考えず呟いていた。
その相手進藤ヒカルが聞いている事も知らずに・・
そして寝返りをうつアキラを何かがぼやけさせていた。
そう止め処なく流れる涙が・・
ヒカルは自分が泣いている事に気付き、アキラに近付く。
点滴に繋がれている反対の手を握り、まるで祈るように自分の頬を擦り寄らせる。
アキラの命を何所にも奪わせない為に・・
『俺は馬鹿だな・・塔矢。これが恋と呼べる感情と今更気が付くなんて・・』
滴り落ちる訳が解らない涙。
瞳を真っ赤にしてまでも塞き止める事をしない。
花瓶の花々が鮮やかに活けられ、花弁を静かに落とす。
誰もいない2人だけの病室に切なさが溢れる。
アキラが老人を庇って、コンクリ−トのブロック塀に全身を打ち付け入院した事を後で知った。
寝ても冷めても囲碁だけの男。
気性は俺に見せる激しさで誤魔化され勝ちだが、不器用な正義感がある。
でも自分の大切な夢の通過点を捨ててまで、きっと普通なら行動に出られない筈だ。
そう思えば優しすぎる理由であり、ヒカルは彼に対して益々深みに嵌る。
しかし両思いかも知れない可能性を潰したかった。

(俺達は異性ではなく、同性だから絶対墓場までこの気持ちを持って行きたい。)
こういった点でもアキラとの恋に対する姿勢が違う。
自分を不幸にしても、彼を守りたい。
屈折した感情が正しい有り方だと、ヒカルなりに考えて動いた。
だがそれを破ったのはアキラ本人だった。



「何様だって・・俺が築いた間合いにお前は考え無しに侵略した。何も生まない結果と知りながら・・どうしてだ。」
葛藤が無い彼のその行動力が自分を虚しくさせる。
「しかし人生はたった一回きりだ。同性だって言う事実が無ければもっと素直に有れたんじゃないのか。進藤・・」
「でもお前・・現実を見ろ。それに俺はお前を数少ない大切な親友と思っている。」
平行線な主張と、狂いが無い程重なる恋心。
どちらかが折れない限り、何時までもゴ−ルは無い。
しかし精神力を磨耗しながらも妥協は許されない。
「親友・・本気でそれだけなのか?未だ僕は覚えている。君が僕に処女を委ねた日を・・」
「とっ塔矢!!」
「初めの内は抵抗したが、直ぐに瞳を潤ませ僕を見詰めたね。そして近付き口付けると微かに頬を染めて受け入れた。」
自分達がお綺麗な立場でない事を語ってくる。
どう言い訳しようが肉体関係を持ってしまった。
不覚にも地方で開催された囲碁研究会で・・


アキラの退院一ヵ月後・・
たまたま仕事でヒカルとアキラがバッティングした。
それだけだったらまだ良かったのだが、宿泊先のホテルが2人用の部屋であり年齢が近いという理由で2人は同室になった。
ワザと距離を置いていたヒカルは、どうしたものかと悩んだが普段を貫いた。
他愛無い会話で全てを誤魔化すように・・
だがそれは徒労に終わった。
『進藤・・君は残酷だな。何故この期に及んでも肝心な事から目を背ける?』
『えっっ・・何?』
『僕に必要以上に視線を何時も寄せて、何かを紛らわそうとする。気付いていないとでも思ったのか・・』
そしてゆっくりヒカルににじり寄る。
対になったベットに互いが腰掛けていたのが、一方にだけに片寄る。
『それに僕がいい加減君にだけ、下心が有る事も知っている筈だ。病室ではっきりと告白したんだから・・』
狸寝入りをしていた訳ではなかったアキラ。
自分の手に伝う愛する者の涙に気が付かない訳が無い。
覚醒前の意識の中でヒカルに曝け出した本音。
恥じる事無く、惜しむ事無く紡がれた言葉。
『何の事だ?お前の言っている意味が理解出来ない。』
そう言ってアキラの空いた方のベットに座ろうと立ち上がったが・・
思いも寄らない圧力がヒカルをベットに転倒させた。
そしてそれに反して起き上がろうとするヒカルにアキラが圧し掛かる。
思った以上に体重を感じさせるゆえに、圧迫感が抵抗を奪う。
腕に食い込む位きつく握り締められ、シ−ツに擦り付けられる。
両腕を大の字にして両方をアキラは押さえ付け、ヒカルの股間に体をねじり込む。
そしてベットを軋ませながら、ヒカルを下敷きにする。
『僕達は神の一手に選ばれた連理の枝。比翼の鳥。しかし恋愛では悪魔に魅入られてしまった・・』
『塔矢。お前気でもふれたのか・・何だよそれは・・』
何が彼を壊してしまったのか・・
焦点が合っていないが、でもヒカルを射抜く瞳。
初めて誰も踏み込めなかった【塔矢アキラ】を知る恐怖が、意味も無く2人を陥れる。
そもそもアキラはヒカルを何時から愛情でもって、意識していたのか?
実際其処に一切触れず、崩壊させた暴力的な愛・・
自然と虚しくなり、心が無い強姦を強いられてしまう。



「俺は・・お前から何も欲しくない。俺からも何も与えない。二度と話し掛けるな。気が散る・・」
酷い暴言を吐いている事を自覚した。
これじゃアキラに見捨てられても、殴られても仕方ないと目を瞑る。
(さあ・・覚悟は出来た。俺を心行くまで詰ってくれ・・)
全てをリセットするために・・