手折った僕だけの華〜第三話〜『レイン』



狂おしい思いが唯一点に注ぎ込まれ始め、それを塞き止める方法を知らない僕は激情のまま行動をしていた。


薄暗い寒々とした空間で、異常なまでに高まる危機感・・
靴が床に擦れながら、ヒカルの動きが激しいことをリアルにする。
自分の影も溶け込むくらいに闇夜が迫る。
今時の少年の手首にしたら細い方に組みされるそれを、背後からきつい位に握られる。
しかしそれに屈しないと、腕を上下に振りながら解こうと試みる。
体内に駆け巡っている血流が滞り痺れが襲う。
どんなにそう言う行動を展開しながらも、自分が嫌がっていることに気付かない加害者に
「搭矢!!いい加減にしろよ。痛いし電気は付けられないし、どういうつもりだ!」
はっきりと彼が聞こえる距離と声・・
しらばっくれようとも出来ないと、息巻くヒカルに怒りが渦巻く。
理由も与えられず、嫌がらせを仕掛けているとしか受け取れない純粋な少年の思案・・
唯でさえ刻一刻と無駄な時間が流れ、数秒で出来る行為を邪魔されている不快感。
状況は充分にヒカルの言い分が正しいように見受けられた。
だがそんなモラルは一切通用しない存在も世の中には在る。
今正に彼が対峙している相手がそれに属される者だった。
碁石で磨り減っている長い指が、更に握力を増し対象物の手に食い込んだ跡を残す。
そして苦痛に歪むヒカルを嘲る。
「君は・・むかつくよ。消したい存在なんだ・・。」
質問に答えず、錯乱した言葉を言い切りヒカルの腕を自身に引き寄せる。
前に伸びた腕の関節が圧倒的な力で折られる。
徐々にアキラの胸元に引き寄せられ始める。
だが反発するヒカルは拳をつくり、簡単に後ろ手を捕らせまいと腕力を強める。
それが僅かに利いたのか、アキラとの間に微量なまでの隙間が出来る。
(腕がそろそろ限界だ・・でも一体搭矢はどうしてしまったんだ?)
前後で意志疎通のない会話が出来る訳がないと、ヒカルは接近して罵倒すべきか、距離を置いて話し合うべきか苦悩する。
どちらにせよ、アキラに何かが起きたと本能で感じる。
こんな事は、今までの付き合いでは有り得なかった。

確かにさぞ自分は過去、彼を翻弄したのは自覚している。
興味も情熱も皆無だったあの頃・・
たまたま平安時代から彷徨う哀しい魂が、ヒカルに助けを求めた。
生前潔癖過ぎたため、汚名に絶えられなく居場所を失った棋士・・
何処へ行っても孤独が彼を取り巻いていたに違いなかった。
寂しい誰も訪れない河川で、不遇を嘆き元服も済んだ成人である青年は、自分に絶望しこの世を去った。
入水という冷たい奈落の淵へ・・
しかし消えかかった彼を留めた、包容力が有る者が悲鳴を聞き分けた。
結果的にそれが一人の、後世に残る棋士を誕生させた。
本因坊秀作という天才を・・
しかしそれはあくまで秀作がやった快挙という事実となり、平安棋士にとっての讃辞はなかった。
何時まで時代が経とうとも、彼に優しい世界は存在しないと諦めていたとき、ヒカルという小学生に救済された。

荒廃した祖父の蔵で彼は自分の運命を知る。
他人には見えなかった秀作の最期に流した血・・
何処までも世代を通り越して、平安棋士を慈愛で迎えた棋士・・
死ぬその瞬間まで我が事のように案じて、彼に次の世界を与えた気高い者。
それがやっと現在に甦った。
名を藤原佐為と言う天才棋士が・・・
彼にとって千載一遇の躍進のチャンスだったが、新たな哀しみをうむ布石だった。
出会った囲碁に無知だった宿主との泡沫の触れ合い・・そしてそれに関わった囲碁を心から愛している少年を・・
こいのぼりが風に泳ぐ5月・・
成仏できなかった彼に引導を渡したのは、ヒカルに眠っていた囲碁のセンス。
搭矢行洋という恒星ばかりに気を取られて、見逃していた新星。
アキラが佐為に感じた畏怖と同じものを、自覚無しに彼は佐為に植え付けた。
だがそれは同時に其処までの才覚と引き替えて、ヒカル自身は佐為の最期を受け入れなくてはならなくなった。
それ程ヒカルにとって深くに居る事を許されたため、ヒカルのこの状況を許してしまったのかもしれない。
適当に訪れた『囲碁サロン』・・そこで再びヒカルは運命を変革した。
一つの事を貫き通そうとする確固たる意志。その重要さを・・
同い年の似て非なる環境に存在した者から習う。
でも考えように寄れば、その少年にはとんでもない衝撃だった。
巫山戯た中途半端な印象を与える少年に、突如受けた敗北の味・・
自尊心を砕いた忌むべき宿敵・・
そう認識されたに違いなかった。
だからヒカルなりに、この事はそれに纏わることではないかと解決の糸口を手繰り寄せる。

それは強ち的はずれではなかった。
ヒカルの細やかな困惑に始終観察している、刃物の様に研ぎ澄まされた眼孔。
意志に反して抵抗する獲物を追い詰める強引な行動。
(進藤・・君は僕に贖罪すべきだ。その身で・・)
最早支離滅裂な感情に流され、混乱しているのはアキラ本人だった。
『囲碁サロン』の外窓に雨滴が滴り落ち始めた。
対局に熱中していたから、小雨には気が付かなかったが自棄に2人にははっきりと理解できた。
数台の車が、タイヤと水溜まりの間での独特の摩擦音を奏でる。
換気で開けていた窓が、それぞれの場所で閉じられていた。
そう・・こんな天候だった。
2人が互いに忘れられなくなったのは・・
僕は彼の身体をワルツのステップ応用のやり方で反転させ、彼を間近で見つめた。
今まで遊んでいた片手を、彼の拘束していない腕の拘束具に替えるように手首を掴む。
万歳をしているように高々と両腕を上げ、彼側の背後にある白塗りの壁に押し付けた。
腰元にあった電話帳が落下する。
しかしそれを拾うこともせず、張り付けになった彼を堪能するのに意識を傾けた。
あどけない表情と、雄を刺激する色気が秘められた表情・・
ゆっくり自我を失って行く僕を煽る彼・・
「お前?何かあったのか・・いや俺が何かしたのか・・」
それを聞くや否、唯でさえ接近し過ぎな互いを押し入り、僕は本能が命じるまま顔までを絡め取るように口付けを交わす。
其処まで踏み込まれなかった互いの距離。
生暖かいそれがどうしてか苦かった。
好いた惚れたで解け合う筈だったその行為が、どうしてこんな心理で出来たのか僕の心は応えない。
表面だけでも充分すぎる彼の柔らかな感触だったが、見開かれた衝撃を受けた彼の瞳で制止が破られる。
角度を変えて弄びながら、反応を楽しむ。
少しずつだがヒカルの眼に気丈なまでに堪えていた涙の前兆が見える。
どちらとも言えない呼吸が、まだ閉じられている口の上の鼻先で混合される。
際限なく形を探られた彼の唇は何故か艶っぽかった。
図々しくも舌を駆使して、違うやり方で味わおうと唾液が定着しているそれを彼の唇に這わす。
乾燥気味だった彼のリップになるように・・と言うものではなく身勝手な欲望のままに・・
流石に拒絶を見せ始めた彼は、腕を忙しなく動かし抵抗する。
どうにかならないのかと、押し戻そうと必死になる。
自由にならない自身を嘆くように、頭を振り精一杯応戦し続ける。
言葉までも封じられ、態度で示そうと躍起になる。
自尊心を蔑ろにしてまで、こんな茶番に付き合う義理はないと訴えている。
何もかもが相違だらけの現在がどうしようもない虚しさを演出する。

ねっとりと舐められ羞恥心に振るえながらも、正常な意識を保つ彼・・
淀みなく自分にされている、性的暴行すれすれの行為に抗う彼・・
体格差のない者から屈辱を与えられる彼・・
その全てが理不尽だと、僕を非難する仕種が野獣を吠えさせる。
絶え間なく与え続けた愛撫と言うより、暴挙を働く舌を離し
「進藤・・君はいつも他人に踏み込み、そして荒らして・・自分だけ日常に戻る。狡い生き物だよ。」
罵り彼を罵倒する。
その彼のきつく封じられた唇に残る僕の体液・・
暗くてはっきりとは確認できないはずなのに、どうしてか肌で感じた。
鈍く輝く支配者の爪痕が痕跡となって、彼を泥沼に引きずり込む。
「自覚が無い分、そこら辺の裏社会で暗躍する人達より質が悪い。」
「何を好き勝手言っているんだ!お前は。さっきから変な態度をしやがって!何が不満なんだ。」
憤りを越えた感情にとらわれたヒカルは食ってかかる。
何が哀しくてこんな目に遭うのか。
しかも言い掛かりまでのおまけ付きでは始末に負えない。
意味不明な用件が伴わない言葉での攻撃。
そして常軌を逸脱したこんな真似。
嫌気が走るのに何の罪が在ろうか・・
許してはならない事だけは確かだと、アキラを憎悪を含んだ瞳で射抜く。
絶交だって最悪、同じ職場だろうが駆使してやると逆に脅しまでかける。
実際こんな場から逃げたい気持ちで渦巻いていた。
ただ対局をしていたに過ぎない此処が、拷問部屋に様変わりする。
だが僕には思いやる余裕も義理もない。

再び食らい付こうと僅かに開いた彼の唇の隙間を狙う。
片手だけで彼の両腕を必死で押さえ、捻り上げ束ね壁に食い込むぐらい強引な行動に出た。
「・・っく・・痛い・・」
腕だけじゃなく、背中に打ち付けられた壁の感触の堅さがそう言わせた。
折り重なる様に接近する僕を、元来体育会系だった彼はしなやかな脚で反抗する。
蹴り上げられたヒカルの脚は、アキラの脛を攻撃した。
革靴でもかなりの痛手なのに、シュ−ズの歪な形でランダムな苦痛を受けた僕は蹲った。
普段の彼なら罪悪感で一杯だが、今回は違った。
訳が分からないと軽蔑しながらアキラを睨む。
そうした非情な攻撃で隙が出来たと、彼はそれを尻目に逃走手段確保に必死になる。
しかしそれを許すほど事態は甘くはなかった。
他人の唾液にまみれた気持ち悪い唇を、袖で拭いながら行動を始める。
設置されている物が多々ある所為で、障害が多い足場・・
電気が付いていない分、手探りな逃げ道
最悪なまで味方しない現状・・
激しくなった雨音が五月蠅いくらいになり、追い打ちをかける様に恐怖を与える。
靴跡を払いながら、獲物に噛み付かれた事での闘争本能に拍車が掛かる・・

「絶対に・・逃がしやしない。僕の復讐を果たすまで・・」