手折った僕だけの華〜第二話〜『アクシデント』



急に訪れた接触機会・・。

これを逃すほどバカに区分されていない自分を、この時ばかりは感謝を胸中でしていたのを思い出す。


蛇口から、一滴の水滴がシンク目掛けて滴り落ちる。
此処は僕の全てに置いての・・領域。
そこに許されたいや、引きずり込んだ唯一の存在が共に存在する、この至福の思いは何だろう。
眉を細めて彼の行動を逐一追っている正直な瞳。
まだ少年と青年のはざまで、成熟しきっていない危ういアンバランスな外見。
前髪だけ色素が抜けた、いかにも柔らかそうな髪・・
様々な表情を語る顔立ちが他人を惹き付けて離さない。
気を許した相手に遠慮がないその発言を紡ぐ薄い唇。
姿態だけでも、充分すぎる印象を与えるのだが貪欲な自分は満足できないでいた。

こんな馬鹿げた心理に駆られたのはいつからか・・
家庭環境はそこら辺の一般人より、失礼だが格上な生活をしている。
日本家屋の清楚感を醸し出す佇まいに、老朽化が激しい最近の住居と違い、年に数回建築士が点検に来る。
それに引けのとらない趣味の良い家具や、インテリが演出されている。
物質面では逆に贅沢の極みかも知れない。
その上僕を愛してくれている母の手料理は絶品だ。
デパ−トリ−も豊富で計算された味付けで、高級料亭で慣れ親しんだ高段者達が、高い批評で舌鼓をうつ。
父は豪傑なまでの囲碁界のキングだった。
攻守とも均衡のとれた手順を基本とし、力碁の僕を師としても指導してくれる。
甘い父と厳格な師を両方担ってくれている尊敬すべき父・・
当然父との対局を求めて、訪れる棋士達に僕は特に苦労もせず勉強をさせて貰った。
自分で言うのも何だが才色兼備な気質を兼ね揃えており、一つのことだけで他が疎かになりがちな不器用な生き方はしておらず、学校も名門出身だ。
人間関係が希薄だと思われがちだが、囲碁部を除けば虐めに遭った事はないくらいの世渡りは上手い。
こんなにも問題がないぐらいの生活環境や、ライフスタイルを所持していながらのこの体たらく・・。
餓えが常に自分を苦しめる。
不満なものの正体は・・思い道理にならない存在が自分に出来たことだ。
初めて覚えた完全敗北の味を、自分と大して変わらない世代の者に与えられた事。
自分の確固たる自信を、根底から覆された上、それが如何に脆い足場だったのか思い知らされた。
稚拙な石の挟み方をする、謎多き少年・・
面立ちは可愛い系に入り、しかし性格が母性愛に溢れる者なら気に入り、それを持ち併せていない者にとったら迷惑な人格。
身近に見掛ける有り触れた者だった。
そんなたわいもない彼に踏み込まれた愚かな僕・・
その訳を知りたく足掻く僕を、他人はさぞ滑稽の極みだと思うだろう。
しかしもう出会ってしまった。後戻りは出来ない・・

「受付のお姉ちゃんが来ないのに本当に良いのか?搭矢。」
行動はモラルに欠ける彼だが、精神的には普通の者が故の困惑。
その証拠にいつもなら直ぐにハンガ−に掛ける上着を、まだ羽織っていた。
整頓され過ぎな空間が理性を戻していたが
「構わないよ。市河さんは普段から僕に閉店後での勉強を許してくれていたから・・」
すんなりと事実を絡めながら返答するが、どうせ後始末は僕がしないといけないだろうと考える。
それが激しく常識を逸脱した行為を想定しても。
まだ優柔不断な彼は渋い表情を見せていたので、自ら誘導するように吊してあるハンガ−を手に取り、白色のコ−トを掛け
「碁盤と碁石を持ってくるよ・・」
と先導すると彼は、いつも何をそんなに詰め込んでいるのか分からないリュックを空き椅子に置いて、自分の黒いジャンパ−を来客用のハンガ−に掛けた。
そして僕の手で用意された対局の場を、彼は最近板に付いた大人びた顔を見せながら
「何だか変な感じだな・・いつもなら五月蠅いくらいのおじさん達に囲まれているのに・・」
碁石を指で弄びながら、周囲の居ない事の不自然さに訝しむ。
確かに絶対と言っても過言では無いくらい、2人だけになり対局する事はなかった。
此処ではギャラリ−が邪魔をし、棋院では他の者との手合いが主に予定され、合宿に於いても社と言う関西棋院出身の棋士に横やりを入れられた。
だからきっとこれが最初・・
「逆に今までこんな機会が無かったのが不思議な感じだね。」
微かに微笑みそして先手だったので、石を碁盤に叩き付けた。
躊躇せず応手を繰り出そうと挟んだ石を、彼自身が立てた戦略の場に置いた。
まだ始まったばかりの戦いに棋譜は存在しない。
お互いの出方を探るための一手に僕も気を引き締め、次の一手を打つ。
力を未だ見せず、ただ楽しむための序盤のため彼も冒険心で応える。
「そう来たか・・未だ数手なのにワクワクするな!」
決まり文句のように彼は僕に現在の感想を話す。
そして間髪入れず、早碁を得意と自負する彼らしくヨミが早く・・
「でも今度は勝たせて貰うぜ!!」
状況には動じず、鋭い一手を放つ。
こんなにも打てば響く相手が世の中に居たなんてと、自然に躍動心が現れ
「だが甘いよ進藤!君はもう研究し尽くした。」
負けないと過去の汚名を振り切るために、諸悪の根源の彼に黒星を与える一手をお見舞いする。
そうした繰り返しで、紡ぎ出される宇宙(せかい)
しかし他の者とはこうはならないと言う不可思議な棋譜模様・・
棋力も自分より上なら納得行く答えなのだが、それだけではないという警戒音が鳴り響く。
どうして今日はこんな切羽詰まっているのか・・


「ねえ・・進藤?何の共通点も無かったあの頃、僕達を引き寄せたものは何だったんだろう・・」
勝手に口を滑った場違いな問い掛けに、互いに沈黙する。
らしくない者からの、らしくない本音で難しい表情を余儀なくされた彼は考え始めた。
暫く対局の手が止まり、静かに彼は普通とかわらない様に
「囲碁の神様(藤原佐為)の仕業じゃないのかな?・・多分・・」
明るくも憂いを秘め、平然と話す彼に苛立ちが隠せない。
意味があって此処に対峙しているのは理解している。
だが汚れの知らない真っ白な感情で、それを理屈付けるのが憎い。
自分は反吐が出る思いで、それだけを持ち合わせていない。
それを彼に理解して貰う方法はないものだろうか・・
「そうかもね。でも進藤はその神に逆らうことは選ばなかったんだ・・」
時々こんな突拍子もない発言をする彼にあわせた陳腐な自分。
決して自分の聖域に踏み込まさないと言う彼に、怒りを覚える。
僕が積極的に動かなかったら、いつまでも現状維持を決め込む。
事なかれ主義を掲げ、迷いがない。
常に相反するものを持ち合わせる彼・・
「選べなかった。だってその先に待っている者(佐為)が居るから・・」
いまなんて言った・・?
それはつまり僕は踏み台と言う事か・・
そうとしか受け取れない自分を恥じずに、平手打ちを彼に仕掛けた。
伸ばした手が盤上に動かず、彼の頬に鈍い音をさせ互いに熱い痛みを覚えた。
突然暴力に走った僕を、痛む頬をさすりながら彼はひたすらに何かを言おうと口を動かすが、言葉が出ない。
落ち度がないと思うのは当然だったが、今の僕にその判断を求めるのは不可能だった。
「とう・・や?どうしたんだ・・」
僕の弁解を待つように、縋る頼りなげな瞳がもう一人の僕を呼び起こす。
自分でも飼い慣らせない獰猛な野獣を・・
それが舌なめずりしながら彼の痴態を要求する。

「君は会った時から僕にとって獲物に過ぎない存在だった。」

身勝手と言うよりエゴでしかない欲望が渦巻く。
言われた彼はさぞかし不快だっただろうが・・これが本性。
それを嫌がった彼は素直に気持ちを切り替え
「好敵手(ライバル)の間違いだろう?搭矢バカになったのか?」
”この事を許してあげるから”と、対局の続く碁盤に視線を逸らし一手を打つ。
あくまでアキラの葛藤を無視し、楽な方へ逃避する彼を更に追い詰める一手をアキラも放つ。
探り合いばかりがこのアクシデントを呼んだが、目覚めた獣がそれで大人しくなるわけがない。
「聞かなかった事にするのは自由だが、僕がこの対局に勝利した後、君にその訳を教えるよ。」
意味深な言葉に彼はやっぱり鈍く、もう勝利宣言をしている僕に激しい闘志を見せる。
闘争心に至っては群を抜いている故の不幸が互いを繋ぐ鎖。
その起爆剤となっているのが僕の存在。
そしてその鎮静剤となり得る者が彼・・
その逆も然り・・
それは変わらず在る暗黙の了解。

(それを悪いが破らせて貰うよ。進藤・・)

柱時計が夕刻を伝え始めた。
下に階の歯科が受付を開始して、治療を求める患者に救いの手を伸ばす。
エレベ−タ−や階段の利用者が増え、物音が激しくなる。
そんなフロアの一階分を、少年2人の貸し切りになっていることは誰も知る良しもなかった。
証明無しで済ましていた対局。
しかし向かいのビルに明かりが灯り始める事で、自分達のいる場の暗さが浮き彫りにされる。
それに流石に暗くなり始めたので、ヒカルは目を労るため
「電気を付けるから待ってろよ。」
気を利かせて立ち上がり、証明のスイッチを探り当てようと壁に向かう。
肩が凝ったのか首を鳴らしながら、今正に押そうとした瞬間…
背後に気配を殺し、近付く人影がヒカルを制止した。
手首を掴み、壁際に押し付けるように迫ってくる。
蹌踉けそうになる体勢を、必死で踏ん張って戻そうとするヒカルを嘲笑うように
「油断だけは僕の前ではしてはならなかったんだよ。全てに於いて・・君は・・」
耳に吹きかけられる冷えた言葉と熱い吐息・・
今までそんな位置から人の話を聞く事事態が、内緒話位しか思いつかなかったヒカルに動揺が走る。
しかも意外な人物からのアクションだったので更に対処が遅れる。
危機感に乏しい訳ではないが、何故かこの時はそれを思い知ってしまう。
そしてそのアキラの意味を、否応なしに刻み込まれてしまう羽目になるのは時間の問題だった。
肩先でアキラの獣が解放を求める。
夜行性動物では無い筈の彼の瞳が、闇で妖しい光を放っていた。
ただ目の前の獲物に魅了されて・・