手折った僕だけの華〜第一話〜『キッカケ』



世界は広いと僕は思う。


天才棋士の父の後継者とまで言われていた僕の前に、突然彼は舞い降りた。


たくさんの並み居る棋士達を、父の傍ら先人の棋譜として学ぶ点が多いと切磋琢磨検討していたあの興奮が嘘みたいに消えている。 容姿も僕とは違った個性的な印象を与える彼たっだからなのかもしれないが・・
それだけなのだろうか?
自分の中の何かが確実に壊れ始めているのははっきりと自覚している。
それは激しくも甘い甘美な美酒のような、優しさの裏にある危険な薫りを残す狂気となって・・
そしてそのキッカケを得るのにそう時間は掛からなかったのは、幸運としか言いようがない。
普段と大差ない日常を過ごしていても 到来したのだから・・
あの日は雨雲が空を覆っていて不安定な気候を演出していた日だった。
棋院では大手合いが予定に組み込まれ、そこで高段者とは名ばかりの進化を諦めた棋士との戦いがあった。 そこに僕を満たす要因など皆無であり、詰まらない相手との無駄な時間が僕を苛立たせた。
稚拙な棋譜を僕と共に描こうと引きずり込まれるその一手一手を、振り切りながら孤高の戦いを余儀なくされたが負けずに、結果を修めた。
せめてもの礼儀と思い、頭を垂れ「有り難うございました」と言うと、憎い恋敵を見るような形相で睨んできた。その者にとっては必死だったのだが 、そんな事は知ったことではない。
だから僕は早熟だったのにも関わらず、焦ってプロ棋士に甘んじたくなかったのかも知れない。こんな堕落の道を歩むくらいなら、この道を捨てる事も、 厭わない上、それだけでは無いことも薄々気付いていた。
自分が求め求められる唯一の存在を得たくてためらっていた。それがそしてその相手が、彼だったと信じて疑わなかった。



「搭矢!今日お前の所の碁会所で対局しないか?」
老若男女が僕を常に遠巻きにし擦り抜け、畏怖と羨望に浸った顔をする中、そんな空気を無視するどころか普通に話しかけてくる少年。
それが友人を軽んじていて、夢を追い掛けるだけの僕に多大な影響を与えたのは言うまでもなかった。自販機で『DAKARA』を購入したのか、その手にはプルタブが開けられ握られていた。
「良いよ。今日は僕もこの手合いで予定はOFFだから・・」
これを職業としている僕達は、学業という妨げが無い分心置きなく自分の時間が取れるいい環境であった。別に2人とも学力が無かった訳でもなく取り留めやりたい事を優先した結果という点に於いても、 共通の意識を持っていた。
進藤ヒカル・・棋士という世界に本来居ることが不思議な者。
一般家庭の出身で性格は少々難ありで、秘密主義者。ありふれた者に数えられるのか疑問視されるのは確かだが、古い嗜みである囲碁には似つかわしくない。
何処をどう間違って現れたのか一生の課題になりそうな貴重な人間。
眉を寄せながらもこうして孤独にならない時間を貴重に思う。しかし彼はどういうつもりで人間性の面白みのない僕に接近するのだろう?
その葛藤を押し隠し、彼と僕はそれぞれの手荷物を取りに行き、帰路につこうとした。側に歩けば僕は整った容姿で人目を惹き、彼はその雰囲気で人の興味を誘う。
彼が天空で恩恵をもたらす陽光なら、僕は静かに静寂の中で存在感を示す月光なのかも知れない。

「何だか小腹が空いた。ラ−メンにしたいけどお前嫌がるだろう?」
彼の大好物らしいラ−メンは正直僕は苦手だ。
店先でも店内でも一切清潔感がない空気。気安い接客もさながら其処までして食しなければならないのかと言わんばかりの待ち時間。和食派の僕を蔑ろにしている。
その困惑を鋭い彼は感じ取り
「喫茶店で良いや!!久しぶりにグラタンを食べたいし・・」
と財布と睨めっこしながら僕に妥協案を提示した。それなら僕も食べられるだろうと・・
それを断る理由が無く、棋院から碁会所までの間にあった喫茶店『あかり』に入店した。
注文は僕がサンドウイッチと紅茶で、彼はグラタンとスパゲティのセットメニュ−とカフェオレを選んだ。そんな中・・
「この喫茶店の名前って、俺の大切な奴の名前と一緒だ!!」
と何かを発見したように喜んでいた。しかしその言葉が僕の心に、温かくそして優しくは届かなかった。
(碁よりSaiという人物より?そして僕より大切な者が彼に・・)
些細な疑惑が自分を奈落に引き寄せる。
おしぼりで手に握られた汗を拭うが、それがこの気持ちを静めるのに何の効果ももたらさなかった。
「進藤?あかりさんって葉瀬中の囲碁部の女子部員の・・」
誘導尋問のように彼の口からそう言わせた者の正体を知ろうとする。背格好は彼と同じ位でセミロングの彼女。何処か彼と似ている顔立ちとその雰囲気。【女版進藤ヒカル】とまで言える存在。
しかし僕に何の影響も与える要因が皆無でしかない彼女・・。
だが幼なじみとして、一生進藤ヒカルの中で認知されるべき存在であるのは確か。
彼女なら不服だが納得がいくが・・もし違う人なら・・君を憎むと思う。
(にっ憎むって・・?僕は何を思っているんだ。)
「そうだよ搭矢。一番俺の事を生きた人間の中で支えてくれる不器用な奴なんだ。」
切なげにスパゲティをフォ−クで絡め取りながら、恥ずかしげもなく僕に語った。
時々垣間見せる彼の哀しげな憂いに、僕は二の句が浮かばない。でも何故か今回はそれだけを僕に与えなかった。
「意外だったか?俺にそんな奴が居たなんて・・」
それは衝撃だったのかも知れない。そして核心に変化した瞬間だった。自分の本音が彼を抉る切っ先となって・・
「本当にそうだけど、正直2人の時間に聞きたくなかったと感じるよ。」
先ほどまでのム−ドをぶち壊そうと構わなかった。彼が悪いのだから・・
急に態度を不機嫌に変えた僕をどうも感じておらず、彼は不味いことをしたとは思わず・・
「詰まらなかったと思うけど、でも・・」
「でも何?・・それが心許す友人との会話だとは理解しているけど・・ならば君にとって僕は何だろう?」
疑問符を投げかけ彼の言葉を遮りその返答を待った。
戸惑い、スプ−ンを運ぶ手を止め僕から視線を反らす。他の来客が少なくなり自然とお互いの言葉が目立つその中・・
「越えたいハ−ドルみたいな感じかな・・多分・・」
悪気の無い、きっと僕達の関係を一番象徴する一言だけど、それは同時にもう一人の僕を落胆させた宣告だった。しかしそれを悟られないように笑顔を作り
「囲碁界の竜虎だからね僕達は・・それより早く食べて碁会所に行こう。」
急かすように上着を羽織り、伝票を片手に椅子から立ち上がった。その先で彼にとって地獄の狂乱が待っていた。


少し互いの間をあけて、彼と僕の父親が経営者の碁会所にむかうと、
「もうすぐ着くな!絶対今度は勝からな!」
と鼻息を荒く、歩幅を狭めながら駆けていった。
はらりはらりと街路樹が木の葉を散らせ、肌寒い気候を演出していた。
看板の明かりが灯される前の慌ただしい準備中の居酒屋。
仕事中の者は駆けずり回り、帰宅の者は開放感を漂わせ歩道を擦れ違う。
忙しない都会の風景は人に決して安らぎを与えない。
その類に漏れず軒に連ねるビル街。
谷間にそびえ立つビルの5Fに目的地がある。
上の階が『献血ル−ム』で、下の階が『町田歯科』と言う中に構える店舗。
しかしその取り合わせでも迷わずその場『囲碁サロン』に赴く僕達。
先に到着した彼は、勝手知ったる様に、エレベ−タ−で僕が来るのを待っていた。
階数ボタンを押し、閉開ボタンを間を置かず押しながら彼は対局を心待ちにしていた。
その普段と何ら変わりない空気を疎ましく思える。
もどかしくてどうしようもない・・
木枯らしは自分の心にも隙間風を送ったのだろうか?
思考にとらわれている中、微妙な振動を与えてエレベ−タ−が開いた。
玄関まで少し煙草臭さが漂う其処に、今日はいつもとは違い休業の札が掛かっていた。
「搭矢?今日ってお休みなのか此処?」
疑問をダイレクトに僕にぶつけるが、殆ど経営を市河さんに任せっきりの父にも、当の彼女にもそんなことは聞いておらず
「僕もこんな臨時休業は知らないけど・・」
と言う返事をせざるえない。
年末年始でも最近は営業している此処だったので、更に不思議な感じだった。
年中行事に至っては、総出でこの場で様々なイベントを計画し、そして此処で実行する位だった。
年輩の者ばかりで正直、僕の世代の者は全く参加0(ゼロ)だが、特に気にしてはいない。
それが僕が選んだ荊道を支援してくれる貴重な者達だったからだ。

「進藤、実は此処の合い鍵を持っているんだけど・・」
ポケットの中に自宅の鍵と共に、キ−ホルダ−の鎖で繋がれた鍵。
プロになったと同時に、将来の事を考慮して託された鍵。
これを最初に使用するのは、搭矢行洋の2世と言う下世話な呼び名が消え去った時と決めていたが・・
どうしてか躊躇せず、指に挟みながら彼の理解を得ようと思った。
焦燥感に駆られたのもあった。
このまま帰したくないと言う切ない感情が、この行動にリンクした。
その雰囲気が彼に通じたのか、真っ直ぐな気持ちで
「うん。俺もお前のスコアに黒星刻みたいし・・」
嬉しくはない表現だったが、嬉しいこれからの行程だ。
2人だけの大切な時間と、その世界・・
それに心の邪悪な僕が満足して、ほくそ笑む。
擡げたその闇が、彼を捕らえろと何げなく鍵を差し込む。
自動ドアではなく、裏手のスタッフル−ム直結の小さな小部屋を経由して、入店した。
静寂が浸透する物寂しさ漂う場所。
しかし几帳面の彼女らしく、こまめに行き届いた清掃が清潔感を与える。
規則正しく並べられたテ−ブルと椅子。
食器もそのまま付け置かれておらず、布巾の上に割れないように水切りの状態だった。
観葉植物も世話が施されて、立派に育っている。
狭い空間ながら常に細かい配慮がある。
その脇にあるボ−ドに、マグネットで固定された一枚の紙が休業の訳を語っていた。

【市河晴美→友人の結婚式で臨時休暇をとります。】と・・
首を傾げて、それを手に取る彼を横目で見つめる。
警戒心を微塵も感じさせない姿・・
誰の色にも染まっていない、真っさらな無垢。
しかし比例して存在する現在(いま)の自身。
何か得体の知れない忌むべき感情が、拍車を掛け思考を狂わせる。
電気をつける前の薄暗い中、僕の口の端に謀略の笑みが自覚無く浮かんでいた。