『神曲』第九楽章



ヒカルはずっと後悔していた。

もし本当に進藤両親の間の子なら、自分のしていることは無意味で、 塔矢行洋の隠し子なら、自分はきっとアキラを不幸にする。
だから行洋に思いすごしな勘違いだと言って欲しかった。
そんなどこかのドラマのシナリオな事は有り得ないと、一笑して欲しかった。
しかし残酷にもヒカルの期待は裏切られ、突き付けられた真実…


はじめは父さんの邪推でしかないと思っていた。
しかし両親が逝ったあと、親戚に盥回された。
世知辛い世の中で、自分達の生活だけでも精一杯なのに、ただ血縁者だからと温かく向かいいれてもらう事はなかった。
明らかに隔たりがある扱いと、両親から聞かされていたヒカルの異常な超感覚。
厄介者と不気味な者としてしか見てもらえず、家族の中に混じっている他人と認識されていた。
そんなある時…


「稀代の天才絶対音感の所持者…塔矢行洋が出ているよ。このチャンネル。」
もう何件目の親戚の家だったか覚えていないが、その家の女の子がその家の母親に指差して話していた。
はみ出し者であった自分は遠くで、そのテレビから流れる演奏をきいていた。
突如感情も言葉も失っていたヒカルに届いた何か…
現在は指揮者であるが、この頃塔矢行洋はビオラ奏者として名声があり、そこで演奏していた。
彼の音色がどこか自分と近しい何かを感じ取ったヒカルは興味を抱く。
それから藤原の家に引き取られて、少しでも自身の謎に近付くために…それだけに音楽を再びはじめた。
「あれから数回、何かの妨害にあったんだよな…。」
まるでヒカルを世間の脚光を浴びさせないように、仕組まれた巧作…
出場した音楽コンクールで、彼の存在は真っ向否定され続けていた。
決して他人に見劣りしない、非凡な才能を…

「それが俺の親戚の家だったんだよな。…。」
ほとんど嫌がらせのように、ヒカルの幸せを断つために、知り合いの審査員にヒカルが厄介者だといい唆した。
自身の子供も音楽をさせていたため、単純にヒカルが邪魔で大人達の都合で、ずっと日陰にされた。
別段それに対して憤った藤原佐為が仲立ちして、今はまだその手は緩くなった。
それもショックだったが…今はそれよりも…


「アキラ…俺はお前の本当にお兄ちゃんだった…。」

アキラにどうしようもなく惹かれていく思い…
あの日あの放課後あの音色に心動かされなければ…
アキラに出会わなかったら、こんな苦しみを覚える事はなかったのに…


自分とまったく違う成功を約束され、誰からもそれを望まれているアキラ。
同じ父親なのに、兄は日陰…弟は輝ける未来…
憎んでも良かったのだけど、どんなにそうしようと思っても出来なかった。
その加護に疑いも無しに甘える奴なら…もっと嫌な奴なら理由もあったかもしれない。
でもアキラは決して自分に手抜きをしない、ずっと心が気高い者だった。
そんなアキラから求められて、自分の生まれたままの身体を委ねた夜…
今までの哀しみ等、どこか忘れられた。
「でも男同士…しかも兄弟で愛し合うなんて…馬鹿だよな…。」
アキラが自分に向ける思いもヒカルも痛いほど知っている。
同じ思いをヒカルも持っているから…


素直になりたい…でも同時にアキラの明るい将来までも奪ってしまう。
アキラには自分の分まで、本当に幸せに成って欲しい。
嘘でなく心の底にあった偽らない思い。
それがすでに奪われ続けた自分が、一番求めている事…
「アキラ…どうしたら良いんだ。俺は…お前を忘れたくないよ…。」
ぽたぽたと床に滴が落ち、染みをつくり濡らしている。
ヒカルは顔を両手で覆い、学園の廊下の片隅で泣いていた。


「本気でお前は不器用だな。」


近付く人影と足音…
急に声が聞こえ、強い腕がヒカルを引き寄せ、ヒカルはすっぽりその者の胸に抱かれていた。
涙で視界はぼやけていたが、見上げると いつの間にか自分の傍に緒方がいた。
「緒方…せんせい…何で…」
そう言い終わらないヒカルの唇に温かな感触が…
はじめは優しく触れるだけだったが、びっくりして少し口の隙間があいたその隙に、 緒方の舌がうねる様にヒカルの口腔を激しく犯す。
「うぅぅ…ん。ふぅぅ…うっうぅん…。」
必死で逃れようと抵抗を試み、顔を背けて頭を振ると顎を攫まれ、向き直されては更に奪われるように緒方のそれは続く…
タバコの味が混じった大人のそれは、徐々にヒカルの拒絶を無意味にしてゆく。
呼吸が苦しい…でも緒方は反して余裕でヒカルを蹂躙して、抱き抱え緒方の個人ルームに連れ去った。

「いきなりどうしたんだよ。あんな事…。」
アキラと触れ合った場所が、緒方に征服されそうになった事が信じられない。
自分は女ではないのに…まるで意図が見えない。
「俺は忠告したぞ。あいつはお前を決して幸せにしない。そんなこと出来やしない。」
緒方の施しがショックだったのか、泣きやんだヒカルは緒方のその言葉に反論して
「緒方先生。逆なんだ。俺があいつを不幸にしてしまうんだ。悪い事なのは…こんな感情は捨てなくてはならない。 でも忘れようとすればするほど、俺はあいつを好きなんだと自覚してしまう。」


絞り出されたヒカルの悲鳴のような恋心…泣き腫らした瞳がまた潤み始めた。
ヒカルが塔矢行洋の居る理事長室から走り出てくるのを、通りかかった緒方が見つけた。
きっと何かあると思い、ヒカルのあとをつけていた。
そのいじらしい姿を切なく思い、黙ってヒカルの独白を緒方は聞いていたが、同時に緒方も理性の箍が外れた。
ずっとヒカルの本懐のため共犯者になってやろうと思っていたが、頼り無げなヒカルを傍で支えるうちに、 彼もまたヒカルに惹かれ、アキラの存在に嫉妬を覚えるまでになっていた。


(塔矢アキラ…お前は本当に残酷な存在だな。進藤にはもちろん…俺にとっても。)
ただ一人叶わぬ相手に…決して祝福されない恋に身を焦がしていたのは何もヒカルだけではなかった。
緒方はその恋情のために、ついにヒカルを追い詰める手段に出てしまった。


「俺が忘れさせてやる。俺はお前が欲しい…。進藤…」