『神曲』第五楽章



十月中旬…


フェスティバルの課題曲を猛練習しているアキラ。
数週間後に迫った演奏会に備えて、授業が終わった放課後いつもの部屋に篭っていた。
しかし孤独な時間ではなく、それを静かにリズムを取りながら、聴いているヒカル。
机に頬杖して、楽しそうに聞き入っていた。
そんな二人は互いを認め合った恋人達。
だがそんな二人を隔てるのは、才能ではなかった。


「どうだい?このアレンジは?」
「いいんじゃないか?でも欲を言うならもう少し優しく鍵盤に接したらいいんじゃね-の?」
アキラは珍しく感情がむき出しで演奏していた為、激しく鍵盤を鳴らしていた。
指も硬くなって、肩も張っていた。
リッラクスが出来ていないのは、誰から見ても分かる事だった。
それは曲調から言って間違いではなかったが、確かにヒカルの言う意味も分かる。
得も言われぬプレッシャ−が、そして憤りが微かに音に込められていた。
「ヒカル…。一度この曲を弾いてくれないか?ピアノでなくバイオリンでもいいから…」
少し休憩をしないとと思い、そしてヒカルの音色をきいて落ち着こうとリクエストした。
「いいぜ。ピアノでも。音楽の基本であるピアノは出来るから。」
音楽を嗜むものはピアノは避けて通れない楽器。
椅子から離れて、ヒカルに座ってもらって楽譜を渡した。
数枚に重なり、クリップで閉じられたそれを見ながらヒカルは暗譜した。
今回は暗譜が義務付けられ、それをヒカルはまだ一回も演奏していない身で実行しようとした。


「軽快さの中の力強い曲か…。これは遣り甲斐があるぜ。」
「見ながらでもいいんだ。初めてなんだし。君は。」
「お前の演奏を何度も聴いているから大丈夫だ。安心しろ。」
そう言いながら、ゆっくりと鍵盤に触れた。
ヒカルの得意なのはバイオリンだけだと信じて疑わなかったアキラは、ヒカルを侮っていた。
しかし確実に基礎以上の演奏で、同じ楽曲なのに表現は違っていた。

アキラのは激情で、ヒカルのは純心。

例えるならそう言った言葉で括れた。


「ヒカルは僕とは違うんだな。何だか憧れを通り越して嫉妬するよ。」
素直に感じた事を言葉にしたアキラ。それを
「えっ?何だ。俺はお前には類まれな本物の音楽を感じるぜ。」
「お世辞はよしてくれ。余計に傷付くから。」
自分の望む形を持っているヒカルに慰められるのは、余計なお世話だった。
ずっと初めて会った時から感じていた違い。それが同じ条件で明確となってしまった。
「違うよ。アキラは絶対調子を崩さない。何度聴いても狂わない。そう言った奴が実は強いんだ。 大勢の前で怯まず、そして飲み込まれず、そう言った大業が出来るのはお前だけだ。」
弾きながら覗き込んでいたアキラを見上げた。
ヒカルはアキラの長所を、本人も見落としている事を良く知っていた。
「でも君も出来るじゃないか。こんなにも上手いんだったら…。」
「それこそお世辞だ。俺は本当は音楽を憎んでいる…。」


ヒカルが漏らした言葉がアキラを苛む。
あんなに楽しそうに周囲に届く音楽をあらわせるヒカルが、音楽を愛していない。
「どうしてなんだ。君はそんな嘘を…」
「嘘じゃない。本当の事だ。俺はバイオリンみたいなもんだ。 一本の弦が切れたら何もかも狂う。だからそうならないように演じているんだ。」
今までそんな事を一切悟らせないように演じていたと。
ヒカルの独特な言い回しで、ヒカルの本音は掻き消された。
そして最終小節に差し掛かり、満足した表情でヒカルはアキラに何時も通りの表情に戻った。
その普段を貫くヒカルをアキラは複雑に感じて、再びピアノを奏でた


ある日の、別校舎に繋がる渡り廊下。
次の授業のため移動していたヒカルを
「進藤…。ちょっと来い。」
「何だよ。緒方センセ−。」
突然呼び止められて、振り向いたヒカルは背後のトランペット科専攻の緒方教師を見た。
ヒカルの父親と緒方が、先輩・後輩関係であり、自ずと二人は旧知だった。
だから学園での兄貴分を買って出て、不安定な立場のヒカルを陰ながらホロ−している。
そんな彼がかなり怒りを秘めた表情で
「塔矢アキラに入れ込むな。お前はそんなにも偽善者ではないだろう。」
「ああ…。そうだよ。だから………している。だって当然だから。」


投げ遣りな言い方でヒカルは何を言ったのか。
それを緒方は良く知っていた。
そしてたまたま廊下の先に居た友人の和谷の後をついていって、緒方から離れた。
「進藤?緒方先生なんだって?」
「何でもない。それより視聴覚室に行こうぜ!森下先生が怒りそうだ。」
豪傑な森下サックソフォン専攻科の先生は、一度導火線に火がついたら何をするのか分からない。
それを同じサックソフォンを勉強している和谷が一番理解していた。
怖くて緊張感ばかり与える先生。
しかし進路相談で和谷がプロになる事を、笑わず真摯に考えてくれているのも彼だけだった。
「でも気のいい先生だし、俺は頑張れるんだ。」
少し頬を染めて恥ずかしがりながら、和谷が話した言葉をヒカルは羨ましそうに聞いていた。


(俺はそんな気持ち…当の昔に捨てたから…)