『神曲−第2部 第六楽章−』



確実にヒカルの態度は異常だった。


何か辛い記憶があるのかふいに自身を防衛するために、アキラを拒絶した。
しかしそれについてアキラは聞ける訳もなく、ただ有りのままのヒカルを抱き締めることしか出来なくて…
(留学してなにが君にあったんだ?いやこの3年間の君の事を僕は知らない。)


オーストリアに帰国したヒカル達を見送って数カ月。
今度はエアーメールや携帯で連絡を交わそうと約束して、住所と新しい 携帯の番号をきいた。
前の携帯は海外へ旅立つ時に解約して、佐為達が困ったから最近再購入したらしい。
はじめは躊躇いがちだったが、明子もヒカルを気に入り二人してせがむから、仕方がないと教えてくれた。
本当は 行かないで欲しいと思っていたが、そんな我儘が通用する訳がないほどヒカルの成長は計り知れない。
行洋の指導だけでなく、その先を見据えた絶対音感がなせる業なのか。
「僕もうかうかとしてられないな。いつか同じ舞台に並ぶために、今以上に努力しなくては。」
そう思っていつも通りの生活を送っていたが…
アキラのマンションの前に、タバコを吸いながら待っていた人物がいた。
かなり待っていたのか足元に数本、吸い殻が落ちていてアキラを射抜くように睨んでいた。


「緒方…先生ですか?」
元教え子を懐かしむために訪れたと言うより、もっと別の目的のために来たのか無表情を崩さずアキラに近付いた。
「塔矢…どうだった?進藤の反応は…。」
「えっ?何ですか…?」
言っている意味が分からず、困惑するアキラを余所に嘲け笑うように
「惚けるつもりか。まぁお前には他人の心など理解出来ないだろうがな。」
「何を言っているんですか。緒方先生どうかしたんですか…」
「進藤は孤独とお前との関係に苦しんでいた。その上に実の兄弟だと。見ていて痛ましい限りだったよ。
その時お前は大して何も出来ない癖に進藤を守るなんて絵空事しか言えん。見ていて腹立たしかった。」
「………。」
「俺ならもっと何があろうとも守ってやるのに…あいつはお前しかその心を許さなかった。
だから進藤を俺のモノにした。もう何度も身体を繋いだ。」
してやったと満足気にシタリ顔をみせる。
緒方が何を語っているのか頭がまわらず、いや信じたくない言葉がアキラに突き刺さる。


アキラを好きだと切なげに言ったヒカルが、アキラを欺いて緒方と関係をする筈がない。
ヒカルを信じたい気持が込み上げて、アキラは少し冷静になって…
「ヒカルが…そんなこと同意の上ではないでしょう。貴方がヒカルをレイプしたんですか。」
アキラへの個人的な嫌がらせではなく、ヒカルへの激情が緒方にはあった。
その獣のようなぎらついている瞳がそう語る。
緒方の必死なだけの虚勢ではなく、嘘ではないとはわかる。
ヒカルの恐怖を知り、彼が助けをどれだけ求めていたのか…
誰にも本当の事を打ち明けられず、ましてやアキラに話せる筈もなく、
そのか細い身体で緒方を受け止めるしかなく…。


「貴方もヒカルを泣かせて平気な人だったんですね。過去ヒカルの存在を疎ましく思っていた人達と同じで…。」
「何だと!!」
「僕は3年前彼を引き留められなかったのは、僕が独りよがりだったから。それは認めます。
しかし彼は夢があった。両親との唯一語り合える音楽を極める世界。
僕の恋心より彼が一番優先しなければならないその絆。
それを理解出来ず彼がようやく掴んだチャンスを奪う権利は誰にもない。
なのにどうして本気で彼の将来に対して向き合ってやらなかったんですか!!」
アキラとて優等生すぎる考えだと自覚はしているが、ヒカルは当たり前の事を自分達よりずっと苦労して得ている。
何故事情を知っている緒方までよりにもよって追い詰めたのか。
好きなら何をしても良いなんて許される訳がない。


それを聞いた緒方は…
「お前はヒカルを本当に大切に思っているんだな。あいつを責めないんだな。俺がヒカルを抱いたと知っても。
それだけでなくちゃんとヒカルが求めている事を理解しているんだな。」
「えっ…?」
「大丈夫だ。あいつは何も裏切っていない。それに俺もお前と同じくらい今思っている相手がいる。」
緒方は最後の未練を断つために、アキラの思いを試しただけだった。
次の恋に向かうために…


緒方とその後別れ、マンションのソファーでテレビをつけた。
そこで行洋から誕生日に貰ったDVDを再生し、行洋指揮で演奏しているヒカルの姿が映されていたので、
アキラは身体の繋がりが欲しいのではなく、自分のそばで微笑んでいるヒカルが一番好きだと改めて再確認して


(いつか全てを互いが乗り越えたとき、もう一度結ばれよう。それまではこのままで…。)