『ノクターン〜優しい音色〜』(『神曲』―番外編―)



まだ寒さが体に堪える二月…

東京のある駅から10分くらい歩いて見える住宅。
少しだけ昔の建築を雰囲気にもつ白壁の家屋。
そこにかかる表札には“塔矢”とあった。

ついこの前、二人の青年が引っ越してきた。
異母兄弟である…兄ヒカルと弟アキラ。
本来はあまり話題にもならない普通の町。
しかしその家に住む住民だけは異端だった。
すでに音楽方面では、名声が高い塔矢行洋の二人の息子。
それだけでなく二人とも音楽の実力に定評がある。


雑誌の記者や、インタビューだけという条件でやってくるテレビ局員。
それより一番周囲の者達を魅了する、時々風が運んでくる音楽。
普段から音楽に興味がある者は当然、無い者までがその家の前で立ち止まり、
思わず聞き惚れるという。
いつしか音楽の館とまで、近所から囁かれていた。
しかしその日は何か音に口論が混じっていた。


「なんだってお前はそうなんだよ。アキラ」
言葉で噛みついて反論するヒカル。
全く自分の意志をアキラは譲らないと、ヒカルのバイオリンの弓を持つ腕を掴み
「確かに仕事上、この家は部屋数が多いから、別室は否めないが、
どうして寝室まで別にしなければならないんだ?ヒカル。」
引っ越しの時は気にならなかったことだが、
たまたま互いが掲載されている雑誌の内容をよんでいたら、
その雑誌の特集コーナーに夫婦の過ごし方があり、
そのアンケートで寝るときはダブルベッド若しくは、
寝室が同室という項目が記載されていた。
それからアキラの中で何かが引っ掛かり、ヒカルに詰め寄った。


唯でさえ、他人の訪問があり出入りが激しい家。
唯一と言っていい位、ヒカルとアキラが恋人で、
実際は肉体関係まであると知っているのは、
二人の学生時代の緒方先生だけ。
他は知らないし、特に塔矢夫妻や藤原の兄弟には知られたくない。
もし知られたら、二人は本当に引き離されるかもしれない。
考えすぎかも知れないが、仲の良い兄弟とみてくれる者ばかりでない。
マスコミはスキャンダルのネタを探している。
万が一、二人の関係を邪推され、あることないことを記事にされるかもしれない。
だから気を付けようとするヒカル。
だがアキラはいずれ両親に知られてもいいと考えている。


「やっと穏やかな生活が出来ると信じていたのに…。」
そう言いながら困惑した表情で、ヒカルは部屋から出て二階の自室に籠った。


そして一階のリビングの部屋には、アキラ一人が残されてしまった。
「ヒカル。僕は君の全てを信じている。でも僕たちはこれだけ目立つんだ。
いずれは一般的に結婚を促される。そうなってからでは遅いんだ。
だから僕達の関係をもっとはっきりとしたいだけなんだ。」
そっと部屋の中央に置かれているピアノの傍に立って、
その鍵盤の蓋をあけた。
奏者がまだ触れていないピアノは、まるで恋人を待ちわびている者のように見える。
互いが紡がなくては、存在の意味が無いもののように…


そのしなやかな指先がB(ベー)の音を奏でた。
静寂の場所に囁く音の声(メロディー)
ゆっくりとピアノの椅子に腰をかけて、
そして楽譜を見ずに自分の知っている曲を掻き鳴らした。
ヒカルへ恋い焦がれた感情を綴った、
自身である塔矢アキラ作曲の【初恋】を…

「アキラ。痛い位にわかるよ。俺もそんな風に出来たらいいなって…
でも世間の冷たさを知っている。家族の死で感じた。
それにこんな俺を息子として思ってくれている
行洋父さんと明子お母さんは裏切れない。だけどアキラが好きな気持ちも裏切れない。
だから…。」
下の階から聞こえるアキラの音色。
懐かしくヒカルの全身を駆け巡る恋情。
どんなにかアキラが自分を求め、そしてヒカルも応えたいと願う。
そっと古惚けたバイオリンケースから、
今は亡きもう一人の父親…進藤正夫の形見のバイオリンを取出し、
階段を下りてアキラの様子を見に行った。
アキラはどんどんピアノにのめり込んでいて、次第に汗をかき始めていた。
切り揃えられたアキラの黒髪の隙間を伝う汗…。
少し振り乱して居た為、髪型が微妙に崩れ始めた。そんな中…


その音に重なるバイオリンの音色。
全く楽譜をヒカルは見た事が無い。
しかし類まれな絶対音感から、バイオリン演奏用に変換して奏でる。

初めの楽章は明朗。
〜ヒカルと出会い初めて知った恋の喜び〜

第二楽章は激情。
〜恋を成就させ戸惑いながらもその感情にまかせる〜

第三楽章は哀愁。
〜離れる事を受け入れ難く心に止まない雨が降る〜

第四楽章は希望。
〜再び会いたい思いだけは素直に留めておこう〜


まるで二人の辿った軌跡のような構成だった。

重なる音の中に、溢れる愛している思い。

『ヒカル…僕たちが未来に繋げるのは、
確かに生命(いのち)が正しいのかもしれない。
でもいいじゃないか。生きた証だけでも。
この音を…この技術を後世に託すことでは駄目なのか?』

アキラとて自分はともかくヒカルが自分との関係で、
世間やましてや身内に軽蔑され嘲笑されるのは耐えられない。
しかしだからといってこの感情を捨てたくない。
例えそれがヒカルを苦しめると分かっていても…
矛盾したことかもしれないが、ヒカルと離れていた三年がどんな有様だったのか…
他人が思っているほど強くない。
ヒカルの事なら些細な事でも心揺らされるのが分かっている。


暫く互いに演奏して、それを終えた頃、
ヒカルはタンスの引き出しからタオルを取出し、アキラに手渡した。
音楽となると熱中し過ぎるきらいがあるアキラは、
汗を拭きながら肩を竦めて苦笑いする。
「バイオリン用ではない譜面なのに、よく合わせられたな。」
その問い掛けにヒカルは、留学での成果だと笑いかけた。
あの時の別れていた時間も決して無駄じゃないと、
今のアキラに対して認めるだけの説得力があった。


「アキラ。やっぱりまだこのままがいい。
確かに問題を先送りにしているだけかもしれない。
でも俺はお前以外には心も身体も許さない。絶対に…」
ヒカルの中で消せない緒方先生との過去だが、
もう緒方先生も佐為兄さんとの関係を大切にしている。
ヒカルの唯一無二の愛おしい存在はアキラだけ。
「ごめん。そうだね。僕が焦っていた。手を伸ばせば君が傍に居る。
こんなに幸せな事を信じられず、世論に惑わされた。
君にこんな姿を見られるなんて…」
そう言ったアキラの手を取り、ヒカルは涙を浮かべ


「この指から奏でられた互いの音色でさっきの蟠りは帳消しだよ。
それならもう一度…今度は最初から…。」
ヒカルは自身の指先をアキラの指に絡め、
アキラのピアノで角ばったピアニストの証を幸せそうに確認していた。
「ヒカルに触れられて僕の指が暖かい。
だけどはなしてくれないと演奏が出来ないし、このまま押し倒しそうだよ。」
その言葉でヒカルは赤面して、慌てて手を放す。
そしてアキラに向き合い、顎にバイオリンを宛がい、
弓を握り奏でてアキラの曲に寄り添う。


甘く優しいこの家(場所)で…




嘗ての別作品『泡沫』の二人は、こういった問題で相手には正確に気持ちが伝わらなかった。
ゆえに痛く切ない結末をむかえた。
でもこの作品『神曲』の二人は、絶対にそうならないと言い切れる何かがあります。
それはこの作品のアキラが本当に必要なヒカルのための行動が出来るからだと思います。
そういった点で『神曲』第二部と番外編はアキラが主人公で間違いないと思います。