『神曲−第2部 第一楽章−』



ヒカルが塔矢行洋の指導のもと海外留学した。
マスコミを掻い潜り出発した二人…
周囲が行方を知ったのは、それは飛行機ですでに現地に到着してからである。
ヒカルは近しい藤原兄弟にしか二人の住居を教えていない。
別れをどう伝えたらアキラに納得してもらえるのか、どうしても分からなかったヒカルは何も告げず旅立ちを決めた。


それが…二人の恋を育む時間を奪う事になり、そして3年の月日が経た。


日本で孤高に自分の活動基盤をつくり、メディア関係や著名な音楽家達から
【塔矢アキラは押しも押されぬ天才ピアニスト】と 名を馳せて、いつも何かを忘れるように必死で音色を紡ぐ。
大学には進学せずに、自然とプロとなり、最近では作曲まで手掛け始めて、
テレビでタイアップされて、CDなど印税で生活できるまでに急成長を遂げる。
その為に実家から独立して、マンションを購入して一人暮らしをしていた。
もともと 料理もそこそこ出来ていたアキラは、全く家事には困っておらず、
ベランダにはプランターを置いて園芸まで嗜んでいた。
しかし…心はずっとある刻(とき)から留まったままだった。


アキラは愛していた者と、尊敬していた者に裏切られた。
全く乗り気ではなく、寧ろアキラに引き留めて欲しいかの如く縋る瞳をしていたヒカル。
あの公園の自分の決意と告白を無視して、勝手に自分の目の前から消えた恋人…。
携帯も音信不通だった上、居場所も分からずアキラは途方に暮れた。
しびれを切らし、恥をしのんで父親に聞いてもみた。
しかし行洋はアキラが何度もヒカルの所在を知りたがって食い下がっても、
ヒカルの可能性とそれがアキラの自立の妨げになると、 親として全く教えなかった。
誰に聞いても言葉を濁され、手がかりもなく月日は過ぎていく。
「いや…愚かなのは自分なんだ。あんな酷い彼に一度でも本気に恋した…。」
でも忘れたいのに忘れられず、尚一層苦しみが増すばかり…
まだ覚えている。ヒカルの明朗でそして切ない表情と、夢見心地な悩ましい身体とその最奥…
いつかこの恋情が風化する事をアキラは願っていた。


ヒカルは海外で高名な音楽家達と囲まれて、慣れない外国暮らしに悪戦苦闘していた。
言語や文化…常識やそこにいる人達…
何もかもが違い行洋が居なかったら、ヒカルは処理できなかったと、 次第に親子の情が互いに芽生えはじめていた。
でも未だに行洋に−お父さん−とは呼べずにはいたが…
「ヒカル…佐為さんが年末年始くらい日本に顔を出しなさいと。」
「でもさぁ。俺も課題と論文もあるし、そんな里帰りしている余裕ないよ。」
そう言いながら、譜面をみながら苦笑いをした。


風も冷たい12月はじめ…
現在彼らはドイツ暮らしから、オーストリアに住居を移して小さな一戸建てに住んでいた。
すっかり大学生となったヒカルは、学業と将来の夢のために忙しかった。
その為一日一日ヒカルは無駄にせず、懸命に努力していた。
新聞の記事、日本でアキラの頑張っている事を読んでは、それを励みに…
数回プロのコンサートに招かれ参加し、そこでヒカルの世間の認知度も徐々に得られていた。
手応えは間違いなくあるヒカルの才覚は行洋も素直に感激して、 どこまで成長するのか、楽しみにしていた。
行洋は2日くらい帰国を考え、カレンダーをみてふと呟いた。
「そうか…もうすぐアキラの誕生日か…。」
「へぇ〜そうなんだ。」
何気なく言ったのだろが、ヒカルは心臓の鼓動が激しくなった。
3年前ほんの僅かでしか二人は恋人同志ではなく、それすら大した思い出もなく、
ヒカルの都合で結果的に別れた事となってしまった。


「あの子も随分日本で力を伸ばしたので、私達は会うの楽しみだな。」
「私達もって…俺も入っているの?それって…」
「ここに一人で置いておけるほど、ヒカルがしっかりとしてくれたら、私も単独でそうするのだが、
全くそういった意味で心配だからな…」
「酷いな〜まぁ確かに多少は慣れたとはいっても、心細いし…。」
「それよりお土産を買って佐為さん達には絶対に会いなさい。
一週間に一度国際便でのメールだけでは、心もとないだろうし…。」
あれから世話焼きな二人は、数回遠方なのに会いに来てくれては、過保護ぐらいにあれこれ構う。
自分達も嘗ては外国で暮らしていたこともあり、その経験談をきかせて、 もうそれは母親以上な愛情表現で、正直参っていた。
「分かったよ。俺はそれじゃ日本では藤原の家に泊まるね。」
そう言いながら、佐為たちに会える喜びより、アキラや緒方と会いたくない後ろめたさだけが過る。
ずっと保留にしていた件に、一番近いところへ自ら飛び込む事だけは避けたい。


(アキラ…まだ向きあう勇気がない。だからもう少し…時間が欲しいんだ。)